高遠 誠一郎④

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高遠 誠一郎④

 四週間の教育実習はあっという間に過ぎていくが大抵は何事もなく、可も不可もなく終えていくものだ。その間に何か事件や問題が起きたりする事は殆どない。しかし園部先生が来てから三週間。最後の週の月曜日にそれは起きた。 「五年二組の丸野さんが自殺?」  職員室に入るや、三つ歳上の男性教師から耳打ちされてつい声に出してしまう。 「ちょっ! 高遠先生。声がでかいって、それと自殺未遂、死んじゃいませんよ」  彼は慌てて付け足したがそれでも十分にショッキングな出来事だ。私は六年生の担任だからあまり良くは知らないが、それでも顔と名前は一致する。快活そうではないが普通の女の子だ。自殺するようには見えない。もっとも自殺するように見えるのであれば事前に対処が可能で、それはつまり食い止めることが出来るのだから、自殺する子供を事前に察知する事はほぼ不可能なのだろうと今更ながら痛感した。 「でも、なんで?」 「わかりませんよ担任じゃないし。とにかく緊急の職員会議があるから一時間目は自習にしてくれって教頭が」  急遽行われた職員会議で分かった事は今朝、早朝五時過ぎに丸野愛子が自宅マンションのベランダから飛び降り自殺をはかった。四階からの飛び降りではあったが、ちょうど下には雨除けの付いた自転車置き場があり、運良くトタン屋根に落下した。実質三階分の高さである事、コンクリートでは無くトタン屋根に落ちた事で幸い足の骨を折っただけで命に別状は無いと言う。  とはいえ小学生の自殺未遂はマスコミの格好の餌食になるに違いない。生徒の安否よりもその対応について話し合われた職員会議では、彼女の自殺理由もそっちのけで全生徒に緘口令を敷くよう釘を刺された。もちろん教師たちも知らぬ存ぜぬで通せと言うわけだ。  異様な雰囲気の中で誰よりも項垂れている教師が一人いた。膝の上で拳を強く握り肩を小刻みに震わせている。園部先生だ。そういえば彼女は五年二組の担当だ。可哀想に。滅多に無い事件、それも教育実習の先生にはまるで関係がない問題が、一ヶ月という短い期間のなかで勃発するなどと誰が予測できるだろうか。 「大丈夫……ですか?」  私が声をかけると顔を上げて振り向いた。その目は真っ赤に充血している。 「は、い。すみません」 「園部先生が謝ることじゃない」 「いや、でも私……」  何か言葉を繋げようとした時に、教頭が手をパンッと叩いた。 「とにかく取材には一切答えないでください。生徒の保護者からも連絡があると思いますが、今は何も分からないと、いいですね?」  そこで緊急の会議は唐突に終わりを告げ、園部先生は軽く私に会釈をすると担任教師の後ろをついて職員室を出て行った。案の定ではあるが職員室の電話は鳴りっぱなしになった。その殆どは生徒の保護者からのもので、マスコミ関係と思われる問い合わせは数社である。今どき小学生の自殺程度では話題性に欠けるのか、未遂に終わった事でインパクトが欠けるのか不明だが、何にせよマスコミが学校に大挙してくる心配はなさそうで私は安堵した。  学校全体の騒然とした雰囲気も、放課後になり生徒が帰宅すると嘘のように静寂を取り戻した。鳴り止まなかった電話も今は置物のように大人しくしている。先生方もみな一様に疲労困憊の様相を呈していたが、中でも園部先生は未だにガックリと肩を落としている。彼女には何の責任もないとは言え、教育実習でたまたま当てがわれたクラスの生徒が自殺未遂とは不憫としか言いようがない。  一人、また一人と帰宅していく先生方を見送りながら最後の仕事を終わらせると、すっかり夜の帳が下りていた。職員室にはもう二人しかいなかった。私と園部先生だ。 「園部先生」  机一つ挟んで隣にいる彼女に声をかけると、キーボードを叩いていた手が止まった。ゆっくりとこちらに顔を向ける。たった一日で一回りくらい歳を重ねたと錯覚する程に憔悴していた。 「あまりお気になさらずに。生徒も無事なようですし」  入院した丸野愛子の担任である九条はすでに見舞いに行っていた。本人の意識はハッキリとしていたが九条の問いかけにはまったく反応を示さなかったと言う。無理もない。自殺するほどの理由、おそらくは虐めの類いであろうが、半端な覚悟ではなかった事は容易に想像が付く。よもや生き残ってしまった時の事など想定していなかっただろう。 「高遠先生……私、私のせいです。一歩間違えてたら丸野さんが……」  彼女はそう言うと顔を覆って泣き出してしまった。これは参った。もともと女性の扱いには不慣れだが、泣かれてしまっては益々お手上げだ。 「そんな、園部先生――」  後に言葉が続かない。彼女は嗚咽を漏らし俯いたまま肩を震わせていた。 「――ったんです」 「え?」 「丸野さんからメッセージがあったんです……」  顔を上げて彼女はそう言った。両目は真っ赤に充血していて、こちらを見た時につぅっと目頭から涙がこぼれ落ちたので、私は目の前のティッシュ箱から無造作に三枚引き抜くと彼女に差し出した。「すみません」としゃがれた声で返事をした彼女はチーンと勢いよく鼻をかんだ。 「メッセージですか?」  ようやく少し落ち着いたように見えた所で質問した。 「はい、ちょっと待ってください」  彼女はお腹の引き出しを開けてスマートフォンを取り出した。ゆっくりと操作した後に画面をコチラに向ける。私は椅子ごと近づいて目を細めた、ラインの画面だ。 『先生、わたしダメだった』  差出人は丸野愛子。前後にメッセージのやり取りはなくてその文章だけがポツンと表示されている。 「これは?」 「今朝入ってました、私気がつかなくて……」  メッセージの横にある時刻を見ると朝の五時十五分となっている。早起きの私でもまだ布団の中で夢を見ている頃合いだ。 「ダメだったとは何のことでしょうか?」  自殺する前の意味深なメッセージとも捉えられるがはたして。しかし彼女はゆっくりとかぶりを振った。分からない、と言う事だろう。 「でもこれはきっと彼女のサインだったと思うんです」 「いや、だとしても」  自殺未遂を図ったのは早朝だと発表された、夕方のニュースでも軽く放送されていたから確かだろう。おそらく園部先生にメッセージを送った直後だ。それを彼女の過失と言うにはあまりにも酷だ。 「九条先生には?」 「見せました……。外部には漏らさないように、と」  なるほど、面倒事が嫌いな彼らしい指示だ。例えなす術がない状況だとしても、マスコミや保護者に露見すれば管理責任欠如、教育実習生への監督責任と言った誹謗中傷は避けられまい。彼らはほんの些細な、針の穴ほどのミスでも無理やり広げて大事件にするのが得意である。まるで、それこそが正義であるかのように旗を振り、一銭の金にもならないことに精を出すのだ。 「彼女……丸野さんは、いわゆる自殺しそうな生徒でしたか?」  質問した後に後悔した。三週間しか教壇に立っていない実習生にそんな事が分かるはずもない。いや、現役の教師にだって難しい。 「どうでしょうか、目立つタイプではありませんでしたが、授業が終わってから分からない場所を質問に来たり積極的な一面もありました……」  私は黙って頷いたが、この話題の着地点が見当たらない。いや、きっと着地点など存在しないのだ。頭を悩ませていると机に置かれたスマートフォンが震えた。ラインメッセージを受信したようだ。 『なんか大変な事になってるね、帰り何時ごろになる?』  妻の玲子だ。私は光明を見出した。 「園部先生、私の家に来ませんか?」  精神不安定な彼女をほっぽり出して帰るわけにもいかない、とは言え彼女を慰める事が出来る気の利いたセリフも思い付かない。ならば玲子に助けを求めよう。 「え、でも……」 「私の妻も元教師ですから、なにか力になれるかも知れません」 「違うクラスの先生にご迷惑を」 「バカ言っちゃいけません。同じ学校の同じ教師、仲間じゃないですか。ささ、行きましょう」   『教育実習の先生連れていくから、ご飯適当によろしく』    妻にそれだけメッセージを送ると私たちは職員室を後にする。すぐに胸ポケットのスマートフォンがブーブー鳴っているが無視をした。きっと苦情であろう事は想像に難くない。
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