高遠 誠一郎⑱

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高遠 誠一郎⑱

 左頬を押さえる上田桃華の祖母を、絵梨華が見下ろしていた。 「やり返してみなよ、ほら? 強者は弱者を虐げていいんだよね。おばあちゃんよりあたしのが絶対に強いから、虐めて良いんだよね?」 「絵梨華さん……」  唖然としながら絵梨花を見つめるその顔に、彼女はもう一発ビンタをお見舞いした。すると祖母は見る見るうちに涙を溜めて、オンオンと泣き始めた。溺愛する孫に殴られたのが余程ショックだったのだろう。人目も憚らずに嗚咽を漏らしている。 「ちょっと何の騒ぎ?」  そこに帰宅してきた女性には見覚えがあった。ラフな格好だがスラリと細身でスタイルが良い。切れ長の目に意志の強そうな眉。上田絵梨華の母親である。 「お義母さんどうしたんですか? あれ、高遠先生まで。一体どうしたんです」  私は事の成り行きと顛末を母親に説明した、母親はウンウンと頷きながら最後まで聞くと、上田桃華の前でしゃがみ、顔を覗き込んだ。そして顔を上げた彼女の頬を思い切り張った。小柄な彼女は二メートルくらい吹き飛んで、フローリングを滑っていった。上田桃華がしゃくり上げるように泣き出すと、母親は彼女を抱きしめて呟いた。 「お母さんが一緒に謝りに行くから、謝って許される事じゃないけど。お母さん一緒に償うから、桃華は一人じゃないから。分かった?」  そう言うと、上田桃華は一層激しく泣きながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も謝っていた。  そこに、つかつかと園部先生が歩み寄ると上田桃華を見下ろして冷えた声で質問した。 「あなた、誰に謝っているの?」  上田桃華は泣き腫らした顔を向けて「ごめんなさい」と呟いたが、その言葉を聞いて目を閉じた園部先生は、次の瞬間目を見開き、右手を思い切り振り抜いた。母親のビンタよりも強烈なそれで上田桃華はまた吹き飛んだ。 「あんたがいくら謝ってもピヨ彦は戻ってこない、丸野さんの傷も一生消えない。その想いを受け止めて死ぬまで後悔しろ、お前なんか幸せになるな! 地獄に落ちろ!」  誰も。何も言わなかった。上田桃華の涙は止まり、恐怖に怯えている。それで良いと私は思った。彼女は反省などしていない。その場しのぎの謝罪をしただけなのは火を見るより明らかだ。自らの犯した罪を背負うのは人間として当然のことである、誰かを傷つけてそのままにするなんてあってはならない、ケジメは自分自身でしか付けることは出来ないのだ。例えそれが子供であったとしても。それが彼女の、園部先生のやり方なのだと理解した。  私たちは一礼すると、カオスと化した上田家を辞去した。自転車を押しながら勇人と絵梨華も一緒に付いてくる。外はすでに夜の帳が下りていて、初夏の生温い空気が頬を撫でた。そこでやっと緊張の糸が途切れて思わず天を仰いだ。そしてすぐに疑問を口にした。 「勇人、お前なんで上田の家に?」 「だって先生たち、証拠も無いのに乗り込む気満々だったろ?」  私は決してそんな事なかったが先を促した。 「とりあえず絵梨華に電話したらさ、ちょうど妹の友達が遊びに来てるって言うから、望みは薄いけどすぐにスマホの盗聴アプリで会話を録音してくれって頼んだんだ」  勇人が絵梨華をチラと見る。 「白々しくお菓子を部屋に運んで、ベッドの下に置いてきたのよ、やるもんでしょ?」 「ああ、さすが椎谷探偵社の隊員だ。そしたらさ、上手いこと犯行の供述を録音できたって訳。俺もすぐに絵梨華の家に来て状況を観察してたらあの騒ぎだろ? すげー強烈な婆ちゃんだったよな」  実際、勇人たちが乱入してくれなければ、どうなっていたか分からない。彼は私たちだけでなく結果的には上田桃華も救ったのだと思う。今回の件で彼女が反省し、更生してくれる事を願うばかりだ。そして丸野愛子と本当の親友になれたならば、ピヨ彦の死も無駄じゃなかった事になるかも知れない。 「どうしてあんな恵まれた環境にいるのに虐めなんてするんだろうな? あ、ほら、絵梨華は絶対にやらないだろ? 同じ環境で育っても別の人格になるんだなって」  勇人は不思議そうに呟いた、確かに兄弟、姉妹で性格がまったく異なるケースは珍しくない。多くは能力差による劣等感などが原因だが上田桃華もまた、優秀な姉との比較により捻じ曲がった性格が形成されてしまったのだろうか。こればかりは何年教師をしていても分からなかった。 「楽しいからよ……」 「え?」  園部先生の言葉に私は驚いた。彼女は続ける。 「むかし、て言っても二年くらい前だけど成人式の後に中学校の同級生が集まって飲み会になったの。友達がどうしても行こうって言うから参加したんだけど、あまり気は進まなかった。私、虐められていた時期があったから……」 「へー。先生は虐められるタイプには見えないけどな」  勇人の言葉に園部先生はかぶりを振った。 「アイツらは誰だって良いの、自分たちの気に食わない相手なら誰だってターゲットにする。でもね、卒業して五年も経つし誰も覚えてないだろうなって、実際、初めはそんな話にすらならなかった。言うでしょ? 虐めた方は覚えてないって。でもそれで良かった、その方が良かった……」  園部先生は私の少し前を歩いているので表情は分からない。けれどその声は少しだけ震えていた。 「少しお酒が回ったらね、加害者のグループがその話を始めたの、違うテーブルだったけど大声で話してるからみんなに聞こえてたと思う、アイツは自慢げに当時の事を語っては大笑いしてた、まるで武勇伝のように語るの。それで分かったわ、アイツらは何の反省もしていない。それどころか、こうやって同級生の集まりがあれば楽しかった思い出の一つとして、毎回のように話題に出る。楽しいのよ虐めは、だから無くならない。だったら楽しくない思い出にしてやるしかないでしょう」  上田桃華に浴びせた言葉のことだろう。 「まあ、何にしてもちゃんと証拠を掴んでから追い詰めるのが基本だぜ園部先生」  勇人はそう言うとポケットからカードのようなものを取り出して彼女に渡した。 「コイツはカード型のボイスレコーダーさ、薄いから鞄とか、そうだな、御守りに入れて渡したりしてもバレにくい。とにかく映像や音声の証拠は必須だから持ってなよ。あ、親父から渡すように言われたから気にすんなよな。じゃあ俺たち塾があるからまた明日」  勇人はそう言うと、自転車の後ろに絵梨華を乗せて颯爽と走り出した。私は二人乗りを注意する事にも気が付かず、そのシルエットを見てただ感謝した。 「どうしたら良かったんでしょうか?」  二人が居なくなると園部先生が聞いてきた。おそらく彼女は教師にならないだろう。そんな事を考えながら私は答えた。 「何が正解かなんて分かりません、ただ」 「ただ?」 「上田桃華のお婆さんが言う通り、虐めは無くならないと思います。しかし無くすのが不可能であれば私たちが早く気付いて対処すれば良いのです、今回のような事になる前に」 「虐めてる子を見つけだして、注意するって事でしょうか?」 「いえ、それだと子供達は大人の目をかいくぐりながら裏で同じ事を続けるでしょう。イタチごっこです。なので虐めを受けた側、傍観している側へのアプローチが必要かと思います。それにイジメをしている子供を糾弾すると、今までやられていた子達は団結し、彼らを責め立てるでしょう。つまり、自分達がやられていた事をそのままやり返すだけになってしまいます。その子達はやはり園部先生にとって憎むべき存在になってしまいますよね? そうならないためには一人一人が自由を尊重し、意見を言い合えるような環境が必要です、開かれた学校生活です」 「嫌な言い方をすれば、監視し合うって事でしょうか?」 「はは、おっしゃる通りです。監視というと悪いイメージですが、犯罪者を見つけたら普通は警察に通報しますよね? 当たり前のことです。しかし、その当たり前が小学生には当てはまらない。通報はチクリと揶揄され、あたかも悪のようなイメージを与えます。まずはそれを改善しなければなりません、通報は義務だと」  園部先生は納得がいっていないのか曖昧な表情で下を向いた。 「園部先生はどうして教員免許を?」  どうして教師に、とは聞かなかった。 「護りたかったんです」 「丸野愛子のような生徒をですね?」 「はい……」  園部先生は俯きながら話し続けた。 「先ほど先生は虐められる人、それを傍観している人が悪いことを見つけたら大人に報告できるような学校と仰いましたよね?」 「ええ」 「私が虐めを受けた原因は男の子とお付き合いしたからなんです、中学二年生の時でした。同じクラスの優しくて大人しい人で、部活帰りにたまに一緒に帰ったりするだけで、手も繋いだ事すらなかったんですけど。最初は冷やかされたりして、それが段々とエスカレートしていきました」  まあ良くありそうな話である。私は黙って頷いた。 「あまりにも酷くて、私も気が強かった物ですから、ある日、言い合いになったんです。リーダーって言うか、クラスの中心みたいな男の子で女子にも人気がありました。それが喧嘩してたはずなのにどう言うわけかお前は俺と付き合えよ、なんて言い出したんです」  なるほど、ようするに好きな女の子を他の男に獲られて、やっかんだ挙句に虐めに走る、典型的かつ短絡的な思考に走ったのだ。中学二年生にしてはやや幼く感じる。 「あまりにムカついて罵詈雑言の限りを尽くして責め立てました、誰があんたなんかと付き合うもんかって……。それから私はクラスの女子からも嫌がらせを受けるようになりました、それは全然構わなかったんですけど、付き合っていた男の子まで徹底的に虐めに合いました。私みたいに気の強い人間は良いですけど彼は優しい人で、じっと嫌がらせに耐え続けていました。アイツらは団体で一人を追い込みますから恐怖もあったと思います}  園部先生は立ち止まり、顔を上げて私を見た。 「彼は裸にされ、自慰行為を強要されました。その映像を私に見せながら、アイツら嬉しそうに笑っていました。その時に使用したコンドームが私の給食に添えられていた時に私の心が折れて、彼もそれから学校に来なくなりました。でも……。もう一度あの頃に戻っても、私は先生や親に言えなかったと思います」  子供の幼稚な部分と、大人以上の残虐な部分が同居した悪魔達の生贄になった生徒達に、大人を頼る選択肢は存在しない。園部先生はそう言いたかったのだろうか。私の言っている事など所詮は綺麗事、絵空事だと。 「私たちは神様じゃありません、しかしそのような子供達を一人でも多く救えるように尽力しましょう。悪いことの区別が付かない、上田桃華のような子供たちも犠牲者なのだと私は思います、生まれついての悪人なんていないのですから」  園部先生は「はい」と答えたあとに薄く微笑んだ。    しかし、そんな私の矜持などは、何の意味も持たない薄っぺらい代物だと思い知らされたのは、それから五年後だった。何よりも護らなければ、救わなければならない娘の玲菜は虐めを苦に自殺した――。
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