高遠 誠一郎⑲

1/1

13人が本棚に入れています
本棚に追加
/55ページ

高遠 誠一郎⑲

「パパー、自転車のれたよー」  すごいな玲菜、よく頑張ったぞ。 「パパ見て、テストで満点だよ」  すごいすごい、玲菜は天才に違いない。 「玲菜、にんじん嫌い」  じゃあパパがこっそり食べちゃおうかな。 「パパ、ただいまあ!」 おいおい、おかえりだろう。 「玲奈が帰ってもパパいないから、玲菜もおかえりって言って欲しいんだもん」  いつも遅くてごめんな、おかえり玲菜。 「パパ聞いて、泰葉ちゃんが意地悪するの」  玲菜、お友達の悪口はよくないぞ。 「パパあのね……」  もう直ぐ中学生だろう? お父さんと呼びなさい。 「クラスで虐められてる子がいるんだけど」  担任の先生にちゃんと報告するんだぞ。 「でも、チクったら友達に嫌われちゃう……」  玲菜、いつも正しい事をしなさい。それがお友達の為にもなるんだよ。 「少し、学校休んでもいいかな?」  玲菜、ズル休みはだめだ。一度すると癖になるからな。 「パパ……」  すまんな、仕事が終わらないんだ、話があるなら明日にしてくれ。 「パパ、ママ。ごめんなさい」  玲菜がこの世に残した、私たちに残した最後の言葉は謝罪だった。私は何をしていたのだろう、私は何を見ていたのだろう。この世界で、もっとも大切で護るべき娘が最後に伝えたい想いはなんだったのだろう。  家族三人で生きていけたら、それだけで幸せだったのに。それ以外なにも要らなかった事に、失ってから気がついた私は、教師としても親としても、人間としても失格だ。  思い描いた夢、理想の自分。大切な家族の前ではガラクタ同然のそれのために、私は家庭を顧みず仕事にかまけて玲菜の話をちゃんと聞かなかった。彼女はサインを出し続けていたのに。    理想のクラス?  虐めのない社会?  生まれついての悪人はいない?    玲菜を殺したのは誰だ? そいつらは悪人ではないのか? ではなんだ? 誰が悪い?    殺してやる。殺してやる。殺してやる――。    強い殺意はやがて自らに向けられた。私はもう二度と失いたくない。だから何も要らない。命さえも。  玲菜のいないこの世界で生きていける自信がなかった。どちらとも無く決断して私たち夫婦は離婚した。精気を失った妻は実家に戻っていった。そして、一人きりになった私は、半年後に玲菜の後を追い首を吊った。また逢える事を夢見て――。  しかし、気がつくと病院のベッドの上に寝かされていた。三ヶ月も昏睡状態で生死を彷徨った挙句に、おめおめと現世に舞い戻ってしまったらしい。 「良かった、高遠先生……。良かった」  私の手を握り、涙を流す若い女性に見覚えはあったが記憶が追い付いてこない。 「園部です、先生? 大丈夫ですか?」  ああ、園部先生か。教育実習で私の学校にやって来た彼女は、予想に反して教師の道に進んだ。妻と意気投合し、時折り我が家にやってきては食卓を共に囲んで教育論を語り合ったものだ。元来の正義感を発揮し過ぎたゆえに、暴力事件を起こして教師免許を剥奪された時は、貴重な人材の損失だと私は惜しんだ。彼女のように悪を徹底的に叩き潰せる女性、いや、大人は現代社会において貴重なのだ。 「先生、死んだら。死んだらだめだよ……」  彼女は毎日、病室にやって来ては私にそう訴え掛けた。曖昧に頷いて追い返した後に、次はどうやって自殺するか、確実な方法は何だろうか。そればかりを考えていた。どうせ生きていたってやる事はないし、とても教師に戻る気にはなれない。もし、自分のクラスで虐めを見つけたら、私はその生徒を殺してしまうだろう。  重篤だったにも関わらず、何の後遺症も無いまま私は無事に退院した。皮肉なものだ。まあ半身不随で自ら死ねない状況よりは、いくらかマシかと独りごちながら、次は練炭自殺にすると決めていた。ネットで調べた情報によれば楽に逝けるらしい。  ところが、そのチャンスがなかなか訪れない。園部先生は私の家に入り浸り、私を常に監視しているのだ。朝、昼、晩と食事を作り、風呂を促され。寝巻きに着替えさせられて、布団に入るまでそばに居るのである。私が眠りにつくとやっと家に帰るようだが、朝起きるとすでにキッチンで朝食の準備をしている始末だ。 「園部先生……。私はもう大丈夫ですから」  そう言っても、彼女はまるで信用してくれない。「目が死んでます」と言いながら朝食を並べていく。食欲はまったく無いのにも関わらず、目の前で作られた食事に手を付けないのも申し訳なく。私は毎日、三食キッチリ食べて寝た。  一度、彼女が帰ってから起き上がりキッチンの棚を開けてみたが、そこにある筈の包丁が二本とも無かった。ホームセンターで購入した練炭と七輪も消えている。ベランダに出て階下を見下ろすが、二階の我が家は飛び降りても死ねそうにもなかった。  それでもコンビニで剃刀を購入して手首を切れば死ねるし、オートロックの付いてないマンションの屋上から飛び降りる事も可能だ。しかし、出来なかった。献身的に私を護ろうとする彼女の目を盗んで死ぬ事は、なにか間違っているような気がした。 「園部先生、本当にもう大丈夫です。若い女性がこんな所に通っていてはいけません」  彼女はジィっと私の目を見つめた後に、リビングを見渡した。そして、左の手のひらに右の拳をポンと乗せて言った。 「このマンション、一人じゃ広過ぎませんか?」 「は? ええ、まあ」 「すみれ荘に来てください! あー、何で今まで思いつかなかったんだろ」  園部先生は悔しがりながら地団駄踏んでいるが、私には何の事だかさっぱり分からなかった。 「生意気なくそガキ、まぁ弟なんですけど、と弥太郎くんって言う素直な高校生が下宿してるんです、二人とも不登校で引きこもりだから、高遠先生が勉強おしえてくださいよ? あっ、これナイスアイデアすぎる」  言うが否や、彼女は引っ越しの手配を始めた。ちょうど閑散期の引っ越し業者は、三日後には私の荷物をすみれ荘と言う三階建ての一軒家に運び入れた。物が無くなり広くなった部屋を私は見渡した。玲菜が生まれた頃から一緒に過ごしたマンション。初めて立ったのはリビングのあの辺りだったな、背が小さくてキッチンの水道に手が届いたのは小学生に上がってからだ。古家のように柱に背を測った線が残されている訳じゃない、しかし、この家に刻まれた時間と思い出は、私の記憶にいつまでも残り続けるのだろう。  その記憶をもう少しだけ大切にしたいと思えるようになったのは、紛れもなく彼女のおかげである。
/55ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加