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園部陸人⑦
西川口からおよそ二時間、ホームに降り立つと案の定、期待通りの蒸し暑い風が全身に纏わりついてきた。ここからは苦行だ。タクシーを使いたいがあいにくそんな金はない。地図アプリを起動して目的地を入力、あとは勝手に指示してくれる、便利な世の中だ。
駅前は意外と栄えている、と言ってもそれはこれから向かう嘉良寿理に比べてだ。それも少し歩けばすぐに田園風景に様変わりした。日光を遮る建物が何もないから容赦なく陽射しが襲いかかってくる。アプリの予定到着時間は二時間、もうトレーニングだと思って諦めた。
似たような風景をいくら歩いても、まるで記憶は蘇ってこなかった。たかが三ヶ月前のことなのに、随分と遠い記憶の中でしか、この田舎の風景が出てこない。それでも目的地である嘉良寿理につくと何となく菫荘の場所を思い出してきた。左手にゴルフ場、右手には一面、田んぼがあり。その先には山々が連なっている。
ゴルフ場を通り過ぎると民家がポツポツと見えてきた、都会のように隣の家に手を伸ばせ届くような距離感じゃない、どの家にも大きな庭が付いていて、車も三台以上停まっていた。
目の前から農業用のトラクターが走ってくる、おおよそ公道を走行していいタイプの車両には見えなかったが、剥き出しの運転席には真っ黒に日焼けした初老のおじさんが麦わら帽子をかぶってタバコを吹かしていた。なんとなく俺はペコリと頭を下げた。トラクターがすぐ横で止まった。
「見ない顔だっぺなぁ」
よそ者を訝しむ表情じゃなかった、むしろ歓迎するような、孫を慈しむような優しい笑顔にホッとする、
「最近まですみれ荘に住んでました、ちょっと様子を見に行こうかと」
帽子を取ってトラクターに座る老人を見上げた。
「すみれ荘? なんだっぺかそれは」
懐かしいイントネーションと方言、ほっこりしたのも束の間、不安がよぎる。
「おっちゃん、嘉良寿理の人じゃないの?」
「おりゃあ、生まれも育ちも嘉良寿理だっぺよ」
電車の中で何の気なしに調べた嘉良寿理の人口は八十九人だった。そんた小さなコミュニティですみれ荘の存在を知らないなんてあり得るのだろうか。
「ほら、この先の道を右に曲がって、ちょっと坂を登った所にある平屋の」
「ああ、宇野んとこの孫かぁ、おっぎくなったなぁ」
うの? なんのことか分からずに曖昧に頷いていると「頑張れよ」と言っておじさんは去って行った。
トラクターを見送り先を急いだ、記憶が正しければあと少しのはず。一本道に突如現れた別れ道を右に曲がる、左手には山があり右手には田んぼが広がっている。すると大きな木が見えてきた、見覚えがある、確かあのすぐ下には池があり、鯉が泳いでいたはずだ。パンをちぎって放り込むと我先にと鯉が群がる様子を鮮明に思い出した。
そしてやはり、その場所には池が存在した。ただ鯉の姿は見えなかった。暑いから陰に隠れているのかも知れない、駅前のコンビニでパンを買っておけば良かったと後悔する。
とはいえ、この池があるならすみれ荘はすぐそこだ、俺は小走りで池の脇にある未舗装の坂を登っていくと、旧すみれ荘は記憶の中の佇まいよりも、かなり老朽化した姿で目の前に現れた。平屋の一軒家、縁側の前には車が五台は停めることが出来るスペースがある。
砂利を踏み鳴らしながら建物に近づいた、朽ち果てる寸前の廃墟と言っても過言じゃない。三ヶ月前に人が住んでいたとは、とてもじゃ無いが思えなかった。心臓がバクバクと波打ち、心拍数を上げた。これ以上は踏み込んでは行けないと脳内で警鐘が鳴っている。
玄関前まで行くと表札の後がくっきりと残っていて、サイズはすみれ荘のそれよりもだいぶ小さい。近づいてみると足元に木の板が落ちていた、すぐに取れた表札だと察して拾い上げる。裏返して彫られている名前を呟いた。
「宇野……」
三ヶ月前、俺たちが住んでいたすみれ荘。その後の住人が宇野なのか。しかし、どこかで聞いた苗字のような気もするし、最近誰かが住んでいたようには到底見えない。
来た坂道を下り近くの家を目指した、当時、近所付き合いをしていた記憶は無いが、何かを知っているかも知れない。少なくとも宇野の事は知っているに違いない。さっきのおじさんも宇野を知っていた。
三十メートルほど歩くと、この田園風景にはそぐわない瀟洒な二階建ての一軒家が見えてきた、すみれ荘とは偉い違いだ、インターホンまで付いている。一瞬、躊躇ってからボタンを押した。
「はい、小野崎です」
「あの、以前、すみれ荘に住んでいた園部と言いますが、少しお話し聞かせてもらえませんか」
「すみれ荘?」
「あ、えっと。そこの鯉がいる池を登った所の……」
「ああ、宇野さんところ、ちょっと待ってね」
少し間があって玄関の扉は開かれた、五十代くらいのおばさんは花柄のワンピースに厚化粧を施し、キツイ香りの香水を付けていた。顔が歪まないように気をつける。
「あらあら、随分と若いお客様ね。暑いでしょう、中にお入りなさい」
標準語だ、もしかしたら東京から引っ越してきたのかも知れない。
「あ、すみません」
洋風のリビングに通されると冷たいエアコンの空気で一気に汗が引いた。出された麦茶をあっという間に飲み干す。助かった。
「ありがとうございます、喉がカラカラで」
「あなた、まさか駅から歩いてきたの?」
「ええ、そのまさかです」
コロコロと笑うその姿はどこか上品だ。しばらくここで休憩したいが、さっそく本題に入った。
「坂道を上った家は、宇野さんて人が住んでたんですか?」
「ええ、そうよ」
「俺……僕は宇野さんの前にあそこに住んでいたのですが覚えてませんか?」
「え? あなたおいくつかしら? 随分と若く見えるけど」
「十五歳です」
おばさんはキョトンとしながら紅茶を一口啜った。
「そうよねえ、でも宇野さんの所は主人が生まれた頃から住んでるって聞いたけど、あ、わたしはここの出身じゃないのよ。わかる? そうよね。主人とは東京の大学で知り合ったんだけど、まさか結婚したら生まれ育った茨城に、しかもこんな田舎に帰るなんて聞いてなくてね、まあ自然豊かで良いところもあるのよ、だからって都会育ちの――」
「あの、すみれ荘は? 知りませんか」
おばさんの話を遮って質問するが、嫌な顔一つしないで答えてくれた。
「さっきも言ってたわね、すみれ荘? 私もここに二十年以上住んでるけど聞いた事ないわねえ」
どういう事だ、俺たちが住んでいたすみれ荘がない?
「それって鯉がいる池を上った所で間違いありませんか?」
「ええ、それにしても鯉って。あそこに鯉がいたのはもう五年以上も前よ」
「え?」
「ほらぁ、あの鯉はもともと宇野さんところが管理してたでしょ? それがあの事故で。ねえ、結局誰が面倒見るかって話になってね、ウチにも来たのよ。でも手間だしお金だってかかるしねえ、結局市の役員が引き取ってくれたから良かったけどさあ」
「あ、あの? 宇野さんて人に何かあったんですか?」
おばさんは眉根に少し皺を寄せてなんだか喋りにくそうだった。
「うん、もうずいぶん前よ。娘夫婦とお孫さんと温泉旅行に出かけたのよ。みんなに自慢しててね。茨城の温泉なんて大したもんじゃ無いんだけどね、孫は可愛いからさ。夏休みに遊びに来るたび大喜びで」
「それで……」
「なんて言うの、大きい車。六人くらい乗れるやつで出発したのは良いんだけど、事故を起こしちゃってね」
「事故、ですか」
「事故って言っても宇野さんは悪くないの、飲酒運転のトラックが後ろから突っ込んで来たんだから」
なんでこんなに心臓がドキドキするのだろう、宇野さんなんて俺には何の関係もない、はずだ。
「それで結局、お孫さん二人以外は亡くなっちゃってね。まあ若い二人が生き残ったのは不幸中の幸いかも知れないけどねえ、酷い話でしょ」
頭が痛い、記憶の片隅に交通事故に遭った時の映像が蘇ってくる。まだ小学生の俺の儚い記憶。
「あの、そのお孫さんたちは」
「ああ、分からないのその後は。しっかりした綺麗な女の子と、可愛らしい男の子。小さい頃に何度か遊びに来たのよ、男の子の方はヤンチャで生意気だったけどしっかり挨拶が出来る子だったわ」
やめろ。聞くな。
「その、名前とか覚えてないですよね?」
「えっとねえ、確か海と陸だから。そう……。七海ちゃんと陸人くん!」
そうだ、どうして忘れていたんだろう。俺の両親と祖父母は事故で死んだ。あそこは旧すみれ荘なんかじゃない。毎年、夏休みに遊びに行ってた母ちゃんの実家だ――。
ふらふらと玄関を出ると「やっぱり車で送って行くわよ」と言ってくれたおばさんを軽く手を上げて制した。アプローチを抜けて外に出る。顔を上げてびっくりした。こんな場所に居るはずがない奴が立っていたからだ。
「弥太郎?」
弥太郎は軽く頷いて、こちらをジッと見つめていた。こぼれ落ちそうな涙を堪えているようにも見える。そしてゆっくりと口を開いた。
「なんで生きてるんだろう、僕たち……」
蝉の鳴き声にかき消されそうな、か細い声だった。でも弥太郎の言葉の意味はすぐに理解した。俺たちは確かに自殺したんだ。思い出の詰まったあのすみれ荘で。
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