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シラを切りたいとき、人は口笛を吹くものだと初めて知った。
あれは漫画などの演出ではなく、本能がそのような仕草を求めるのだ。しかし普段口笛などしたことない者が急ごしらえしたところで、プスーと空気が抜けるだけだった。マトモに彼女を見ることもできず、かといって素直に桜を鑑賞することもできず、目が泳ぐ。
懸命に口笛を吹こうと斜めにとがらた唇。
左右であらぬ方向を見つめた両目。
ひょっとこだ。
美しき桜の下に般若とひょっとこが並ぶ。
なんと残酷な絵面だろうか。
このままではいけない。彼女を般若のままにしてはおけない。
僕は心の内で祈った。
色即是空 無味乾燥 諸行無常の響きあり
鎮まりたまえ 静まりたまえ 沈まぬ太陽 沈んでみたまえ
御霊を見たまで プスープスー
ダメだ口笛が邪魔する。般若心経もうろ覚えではきっと通じないだろう。
ここはそう、誠実に対応すべきだ。
認めよう。僕は去年別の女の子とここに来た。
しかし彼女とはそれきりだ。結局のところ関係を持つこともなく別れた。正直言って期待してなかったといえば嘘になるがーーーモノにできず結果的には何も無かったのだ。ならば何を躊躇する必要がある。一時の迷いはあったがこの身は潔白である。
ひょっとこはやめだ。覚悟を決めろ。僕は口元をギュッと引き締め、身体をズイと彼女に向けて思いっきり頭を下げた。
「ごめん!僕は去年ここに別の子と来ました!本当にすいませんでした!!」
頭を下げたまま、結局何も無かったこと、その子とはそれきり会ってないことを説明し倒した。浮気なんて二度としない。誓う。君だけだ。どうか許してくれ、と許しを請うた。すぐには信用できぬ話だろう。それでもだ。
僕は持てる限りの語彙を振り絞り、必死になって謝罪した。
やがて言葉が尽きると静寂が訪れた。
周囲の雑踏の音が妙に遠くに聞こえる。首を垂れたままの僕の後頭部にはジンジンと視線が突き刺さっていた。話は伝わっただろうか。どんな反応をしてるのだろうか。
恐る恐る顔を上げ、チラリと彼女の顔を覗き見るとそこには。
ーーーーーーー能面?
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