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第1話
早瀬恵は朝からゆううつな気分だった。
それは一時間目の授業が国語だからだ。
「それじゃあ音読を……」
担任の吉本先生はぐるりと教室中を見渡す。吉本先生は音読の当番をその日の気分で決める。大体は日付と同じ出席番号の人を指名するけど、たまに目があった人を当てたりもするから、恵はうつむき、気配を消しながらも祈った。
どうか、当てられませんように。
なのに。
「今日は五月十四日だから、出席番号十四番の人、早瀬か。立って読んでください」
祈りは届かず、やっぱり当てられてしまった。
立ち上がった恵は緊張や、昔の嫌な思い出が頭によぎってお腹がきりきりと痛む。
「どうした? 読む場所分かるか?」
「はい……」
教科書を顔の近くまで持ってくる。読む場所は分かっている。題材は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』。最初の一文は『ある日のことでございます』だ。
恵は文章を読もうとする。だけど文字がぐにゃりと曲がって読めなかった。
目を閉じてもう一度見ると、今度は文字の大きさがばらばらになってさらに読みづらくなってしまった。
それでも恵はなんとか一文字ずつ、分かった文字を読み上げる。
「あ、ある、日、の、こ、とで、い、い……」
恵の音読を聞いて、まわりがざわざと騒ぎ出した。吹き出したり、顔を見合わせてニヤニヤしたり。
すると、吉本先生は「おい!」と大きな声をあげた。
「なにがおかしいんだ! 早瀬は一生懸命読んでるだろ!」
しーん。
「気にしないでいいからな」
「……はい」
みんな、ばつが悪そうに教科書を見る。恵はみんなに笑われるのと同じくらい、先生に怒られたあとの教室の空気が嫌だった。
授業が終わったあと、吉本先生は恵を廊下へと手招いた。
「早瀬はもしかして目が悪いのか?」
「視力は2.0です」
「そうか……。じゃあどうしてだろうな」
吉本先生はうーん、と首をひねる。
「ほかは大丈夫か? なにか困ってることないか?」
「……いえ、大丈夫です」
本当は全然大丈夫じゃない。
だけど、言ってもどうせわかってもらえない。
恵がディスレクシアという学習障害と診断されたのは小学校一年生の時だった。
ディスレクシアとは文字の読み書きを難しいと感じる学習障害だ。でも、誰かと話したりはできるし、目や耳、発音が悪いわけでもない。
だから『い』と『こ』、『ね』と『わ』を間違えてしまうとか、枠の中に文字をうまく書けないと言ったところで。
「文字がわからないのも、書けないのも、努力が足りていないからだ。障害のせいにするな。怠けるな」
そう言われるだけ。だから言っても意味がないんだ。
恵は口を閉ざし、うつむいていると隣の教室から大きな物音が聞こえてきた。
「先生! 森崎くんが暴れてます!」
廊下に飛び出してきた女子がそう叫ぶと、続けて机が倒れる音が聞こえてきた。
吉本先生はまたか、つぶやくと隣の教室へと行ってしまった。
学校が終わるのが午後四時すぎ。塾が始まるのが午後五時半。一時間ちょっとのすき間の時間に、恵は塾へと向かう道を遠回りして河原へと寄る。
河原は恵のお気に入りのスポットだ。
川の流れは穏やかで、土手の草は夕日に照らされ金色に光っている。風が心地よく、なにより人がいない。たまに犬の散歩をする人が通るくらい。
静かな時間、恵は詩を考える。
詩を初めて詠んだ(作った)のは去年だ。ゆううつな国語の授業で初めて楽しいと思えた時間だった。
目に見える景色。肌で感じる空気。匂い。音。そして、自分の気持ち。それらを頭の中で言葉に変換する。
よし、できた。
恵はカバンからタブレットを取り出す。詩は好きでもやっぱり文字入力は苦手だから思いついた詩はすべて録音している。
赤い録音ボタンを押し、恵は目を閉じる。
「川がゆっくりと流れる。
金色の風とともに。
苦しい思い出も一緒に。
けれども残る。
心の痛み。」
録音停止。
再生して、もう一度聞いてみる。
うん、いい感じだ。自分の声は少し変な感じだけど詩自体は気に入った。
ほくほくした気持ちで音声データを保存すると突然声が聞こえた。
「いまのなに?!」
声がした方を振り返ると、土手の上に隣のクラスの森崎翔太が立っていた。
翔太は土手を滑り降り、恵が持つタブレットをのぞきこむ。
「今の保存してんの? もう一回聞かせて!」
「う、うん……」
本当は恥ずかしくて誰にも聞かせたくないけど翔太の勢いに負けてタブレットを渡してしまった。
タブレットから再生される詩を黙って聞く翔太を恵はこっそりと観察する。
シャツのえりはダルダル、クツもボロボロ。
これが噂の森崎くんか。ある意味有名人だからよく名前は聞くけど、これまで一度も同じクラスになったことはなかったから、話をするのも今日が初めてだ。
「この詩はどういう意味なん?」
「意味って言われても」
「なんか、すごいいいなと思ってさ」
「え」
恵は嬉しくてにやけそうになるのをぐっとがまんした。
「なに変顔してんの」
「別に。詩でしょ。普通に今見てるこの景色のことと、あと朝に嫌なことがあったからそのことを『かきくけこ』でまとめてみたんだ」
「かきくけこ?」
「最初の文字がさ」
そういって恵はもう一度詩を再生する。
「ほんとだ! すご!」
川・金・苦・け・心
最初の文字を順番に読むと『かきくけこ』となる。これは「あいうえお作文」というしかけだ。
避難訓練で教わる『おはし』も『押さない・走らない・しゃべらない』のあいうえお作文だ。
翔太はすげー、と言葉をもらしながら無邪気に笑っている。そんな翔太からは教室で暴れるイメージが浮かばない。
「詩ってどうやって作んの?」
「一つの単語から関連する言葉を考えるんだ。例えば夏なら暑い、海、入道雲。それをもっと言い換えて、なにもしなくても汗がぽたぽたと垂れる気温、とか。澄み切った青い海、わたあめのような雲、みたいな感じで。そうすると詩っぽくなるというか」
「なるほど?」
「ほかにも対句法とか反復法とかいろいろ技法があって……」
「うんうん?」
あ、あんまりわかっていないっぽい。
というか、そもそも。
「なんで詩を作りたいの?」
「詩を作りたいわけじゃないんだけどさ。なんかラップのヒントになるかなって」
「ラップ?」
「そう! ラップ! 知ってる? 俺、自分のラップやりたいんだよ!」
翔太は急に立ち上がり、目を輝かせながら話す。
「ラッパーのMCユーキって人のラップが、なんかすげーやばくて! 俺もラップやりたいって思ってさ! なんでラップやりたいのかはわかんないけど、まじMCユーキはすごくて! あー、なんて言えばいいんだろ!?」
翔太はもどかしそうに自分の頭をわしわしとかきむしる。つまり。
「そのMCユーキって人のようになりたいってこと?」
恵の言葉を聞いて、翔太は目をパッと開いて笑った。
「そう、それ!! お前すごいな! なんでも言葉で表す天才だな!」
翔太に肩をバンバンと叩かれる恵。じりじりと痛むが、うれしかった。
気がつけば塾へと向かう時間になっていた。恵はタブレットをカバンへ戻して立ち上がる。
「また明日、ここ来る?」
「うん」
明日は塾ないけど、つい頷いてしまった。
「名前は? 俺は森崎翔太」
知ってるよ、と思いつつも恵は黙っていた。
「早瀬恵」
「恵、じゃあ明日な!」
塾へと向かう道中はいつも気持ちが沈んでいる。文字が読めなければテストもいい点が取れない。わざわざ塾にいるみんなに頭が悪いと思われに行っているようなものだ。
だけど、今日は違った。
『なんか、すごいいいなと思ってさ』
『天才だな!』
翔太の言葉がいつまでも心の奥を暖かく灯していたから。
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