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第1話 事件の前触れ
メンフィス州の執政官パイベスは溜め息をつきながら、呆れ顔で、たったいま届いたばかりの報告書を見下ろしていた。
届け人は、ここから少し南へ川を遡ったあたりにある首都、イチィ・タウィから来た伝令だった。その伝令はというと、パイベスの質問には何ひとつ満足な答えを返さないままに、既に去っていってしまった後だった。自分はただの配達人で何も知らない、次の州へ急がなければならないからと言い張って。
その報告書が告げたのは、はるか上流の属国、クシュの国の支配権を喪失した、という簡素にして重大な事実だった。
本来なら口頭報告もなしに、こんな報告書だけで簡素に済まされてよいはずもない連絡事項だ。
だが問題は、そこではない。報告が、今の時期までずれこんだことのほうだ。
――何となれば、南の属国の支配権が失われたという時期は、なんと半年も前だというのだから。
(国土最南端のアスワンの街からでも、十日あれば書簡は届くだろう? さては中央が、都合の悪い事実の公表を遅らせたな)
苛立った指先で卓の端を叩き、彼は、視線を窓の外に向けた。
かつてクシュ提督の副官だったこともあるパイベスにとっては、悔しさよりも情けなさの先立つ話だ。
数年前に企画された東の異国への遠征が大失敗に終わった今、この国の軍事力も、王家への求心力も、大幅に低下している。南部の離反は時間の問題だったのだ。分かっていたはずだった。それなのに、止められもしなかったのだ。
(この件を、州知事どのに伝えるのは…さて。どう切り出したものか)
メンフィスの北街、その高級住宅街にある彼自身の邸宅の窓からは、浅い角度の太陽光に照らされた中庭の果樹園が見える。日の短い季節において、太陽の光は夏よりもずっと弱まっていた。
執政官、という職業は、いわば各州の政策の実行責任者である。
国でいえば宰相、貴族の家なら執事に当たる役職だ。彼の場合はメンフィス州の州知事の下につき、代理として州の政治全般を切り盛りするのが仕事だった。
対して、彼の主である州知事ウクホテプは、無能ではないものの現実的な政治概念には疎く、血筋と家柄の良い世襲貴族だ。かつて首都でもあったこのメンフィスの街を訪れる、有象無象の貴族や王族連中にとっての顔役であり、接待と応対が主要業務のようなもの。家柄という意味では取るに足りないパイベスでは、こなせない役割を担っていると言っても良い。
ただ、血筋が良いぶん、自尊心も高いので、扱いには細心の注意が必要となる。半年遅れで国政の重大事項を知らされたことで、国から蔑ろにされたと思い込んで腹を立てないよう、巧く理由を付けて伝える必要がある。
(しかし、それにしても…奴の予言は、また、当たったことになるのか)
パイベスは苦々しい表情で、ゆっくりと視線を戸口のほうに向けた。
ほんの数ヶ月前、そこに立って、確信に満ちた表情で、これから起こることを述べ立てた、年若い書記がいた。
大神殿の筆頭書記、ジェフティ――。
あの男は、正式な報せが届く前に、”この国の東の国境も、南の国境も、既に意味をなしていない”と言ってのけたのだ。国土が分裂する、と。
その言葉が正しかったことは、すぐに証明された。下流の州の反乱の知らせが届いたのは、まさにその直後だった。
そしていま、国土の南にあった属州クシュの独立の報せが届いたのだ。あの時に伝えられた予測は、悔しいほどに当たっていたことになる。
それが、州知事にとっても彼にとっても目障りに思っている、大神殿の権威に仕える筆頭書記だからこそ、尚更悔しい。
直情的なウクホテプのことだ、パイベスなら言わずに飲み込むだろう言葉を、あけすけに口に出して言うに違いない。
それがまた、面倒なのだった。
気の重いのを押して主のもとへ出かけようとしていた矢先、秘書として雇っている書記が、慌てた様子で部屋に入ってきた。
「失礼いたします。州知事どのがお呼びだそうです。王都からの使者が来られているとかで、大至急、来て欲しいと」
「使者だと? つい先程、こちらに来たばかりではないか。」
「それが、どうやら別件のようです。」
「……。」
使者と伝令が二人、それも別々に送られたということか。この短期間に何とも慌ただしい。
さきほどやって来た伝令のほうは、この辺りの州を周って連絡文書を渡して周るだけだろうが、使者のほうは、”使者”というからには、何か重要な話を持ってきたのに違いない。それも、執政官の自分ではなく、直接、州知事の方に面会に行ったのだ。――ということは、王か、中央政府からの、直々の要件である可能性は高い。
「すぐに行く。」
短く、それだけ答えて、パイベスは足早に部屋を出た。
州知事の邸宅も、この北郊外の近所にある。徒歩でも、すぐに辿り着ける距離なのだった。
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