16人が本棚に入れています
本棚に追加
/22ページ
第18話 運命を変えるもの
ペンタウェレを北の街に向かわせていた、その日、州議会の議会書記セジェムは、休暇を取って街に出かけていた。
滅多に休みを取らない――その代わり、勤務日であっても仕事しているのかサボっているのか曖昧な態度でよく知られた彼が仕事場を離れるというので、仲間たちは、何事かと噂しあっていた。
「執政官どのに色々言いつけられて、流石に嫌になったんじゃないのか」
「いやいや、上二人の縁談を、そろそろ本気でまとめる気かもしれんぞ。何しろ、下の子が先に決まっちまったらしいからな」
「あそこは愛妻家だろう。奥さんに何か頼まれたのでは?」
書記たちが顔をつきあわせて、ああだこうだと噂しあっている声は、実は、パイベスのところにも聞こえてきていた。
「まったく…。呑気なものだな、あいつらは」
不機嫌そうに呟きながら、彼もまた、セジェムが何処へ、何をしに行ったのかが気になっていた。
他の書記たちはともかく、彼だけは、州知事の不在の理由も、セジェムとその息子たちに任せた調査も正確に知っている。何しろ、言いつけたのが彼自身なのだから。
行方不明になったという、王の遠征隊。
その遠征隊が、実際には正規の遠征隊では無かったかもしれないと判明したのは、つい昨日のこと。この状況で、抜け目のないあの男が、意味もなく休みなどを取るはずもない、と彼は思っていたのだった。
そのセジェムが、ひょっこり執政官の部屋に顔を出したのは、夕方近くになってからのことだった。
「プタハヘテプの奴に会いに、大神殿に行ってきました。いやあ、チェティがいないと、自分で聞きに行かなくてはならないのが面倒ですな」
まるで馴染みの家でも訪問するように現れた彼は、気さくに報告に現れた彼は、にこにこしながら、その日の出来事を報告した。
「大神官に会いに、だと…?」
パイベスが眉を寄せるのを見ても、男は笑顔を崩さない。
「実はプタハヘテプとは、書記学校時代の馴染なのです。卒業してからは、まぁ、それなりに疎遠にはなりましてな。それほど関わりがあるわけでもないのですが、昔のよしみで、少々、世間話をして参りました」
「…何を、話したのだ。」
「昨日、ペンタウェレが言っていた、ケンメスという書記のことです。実は、長男のジェフティのほうからも、その男の話は聞いておりました。大神殿の客人として、異国人の貴族を連れて下流の州からやって来たとのことでした」
「異国人の――貴族…?」
言わんとしていることを瞬時に察して、パイベスの表情が険しくなる。
「異国人優遇策を打ち出した州か」
「おそらく、そうです。」
「では、そのケンメスとやらが、この街の職人を引き抜いて、アヴァリスに連れていくつもりだったという推測は、正しかったのだな」
「でしょうな。」
セジェムは、平然としたままだ。
「それに、もう一つ。ケンメスは、同じメンフィスの書記学校を先に卒業しているのです。つまり、私の先輩ですな。卒業した当時――もう三十年以上も前になりますが、その当時は、中央に務めておりました。当時の王家のもとで、宰相づきの書記官にまでなっていた男です」
「宰相づきの? 政府中枢の高官ではないか。それが、どうして下流州などにいるのだ」
「政変時にお決まりの、反対勢力一掃です。ま、左遷ですな。」
「……。」
苦々しい顔で、パイベスは口を閉ざしていた。
この数十年で、「王家」が幾つもの家系に変わっていったのは、周知の事実だ。そのたびに、その時々の「王家」に仕える重鎮たちが左遷されていった。
パイベスも、その一人だった。
「残っている連中は、おべっか使いの信用ならん奸臣ばかりだ。クビになったのなら、そいつは、まともな感性の持ち主だったのだろうな。…その時点では」
「ええ、その時点では。で、中央の職を辞したあとは、王家に連なる、末端家系の貴族の家で執事をしていました。当時の当主の名は、レフェルイルカラーセネブ。ケンメスは、家を出た次男のアンテフイケルについて行ったようですな。」
「なるほど、話が見えてきたぞ。かつて宰相に仕えていた書記なら、王家の物資調達の正式な手続きも、慣例も、全て把握していたはずだな。その手の制度はそうそう変わるものではない。身分証や書状の偽造は勿論、王家の管財人に示す符丁すら知っていただろう。――そうか、奴は、偽の『王の遠征隊』を仕立て上げた、ということか」
「でしょうな。」
「わざわざ危険を犯して首都に寄ったのは、何か必要な手続きのためか。」
「あるいは、先だって死亡した、いまの主の兄であるレフェルジェフレンの、首都の屋敷に残された財産を回収するためだったのかもしれません。で、偽の遠征隊は、オアシスで、王家の財として管理されている貴重な産出物をまんまと掠め取り、そのまま行方をくらました。」
「ふん。やはり、お前が動くと話が早いな」
パイベスは、唇を吊り上げて歯を見せた。楽しくて笑っているのではない。腹を立てているのだ。
「西の鉱山は常に稼働していて、不定期に送られる王家の遠征隊が到着次第、貯めている資源を引き渡すことになっていたはずだ。まさか、偽物の使者が引き取りに現れるとは、思いもよらなかったのだろうな。――で、それを王の僭称者に引き渡したのか。よくもまあ、そんなことを」
「そのケンメスがいま、謎の貴族を連れてメンフィスの街を大手を振って闊歩しているわけです。容疑者ではあるものの、捕縛するに確固たる証拠もない。相手は州知事の腹心、となれば、どうなさいますかな?」
「煽っているのか?」
「とんでもない。執政官どのが思慮深く忍耐強いお方なのは百も承知です。いきなり襲いかかって捕らえたところで、出す尻尾も出さないでしょうな。はてさて」
セジェムは、ちょっと肩をすくめて首を傾げた。
「実は、どうやって奴めにボロを出させるか、考えあぐねておるのです。西から運んで掠め取った物資が既に全て下流の州に送られてしまっておるなら、証拠は何も残っておりますまい。ですが、職人の引き抜きのために、一部を持ち運んでいるとか、何処かに隠しているとかなら、話は別ですな。」
「証拠を見つける必要がある、ということか」
「さようです。まあ、念の為に不肖の息子ペンタウェレにも可能性のありそうな場所を探らせてはおりますが、他も当たっておいたほうがよろしいかと」
「……。」
「おっと、夕食の時間だ。戻らないと、妻に叱られます。それでは、失礼致します」
ぺこりと頭を下げて、セジェムは、パイベスの返事も待たずに足早に部屋を出ていってしまった。こんな無礼が許されるのは、彼を置いて他にはいない。
だがパイベスは、今更、そんな些細なことを咎める気は起きなかった。
それよりも、セジェムが持ち帰ってきた情報のほうが重要なのだった。
(元宰相の書記官、か。)
三十年も前のこととなれば、かつて中央で官職にあったパイベスも、知りようがない。だが、おそらくは、彼自身が罷免された時と、同じようなことが起きたのだと推測することは出来た。
権力闘争、宮廷内政治、公然と行われる汚職に、責任のなすりつけ合い。
王位ですら安泰ではなく、政治的な都合によって挿げ替えられる。
現場に出て対処している者ほど割りを食い、王宮で根回しに余念がない者ほど得をする。
失意のうちに現場を去っていったケンメスが、自分をないがしろにした国家や中央政府というものに一矢報いてやろうと思ったとしても、分からなくはない。
ただ、それは、パイベスにとっては、決して許されないことだった。
たとえ自分がないがしろにされたと感じていても、不当な扱いを受けたのだとしても、――それを利用に秩序や正義を損なう行為に手を染めることなど、あってはならないのだ。
そそくさと役所を後に、メンフィスの街の中心部にある自宅へと戻ったセジェムは、いつもどおり、笑顔で帰宅した。
「ただいま」
「おかえりなさい」
奥の台所から、彼の妻タイエトが顔を出す。
だが、いつもなら一緒に出てきて父に駆け寄って来るはずの末っ子、メリトの姿がない。
「ん? メリトは、どうしたんだい」
「それが…。お友達が居なくなったとかで、ずいぶん落ち込んで、泣いているの」
「居なくなった?」
夕食の席である敷物の上の定位置に腰を下ろしながら、彼は、怪訝そうに首を傾げた。
「イウヘティブの姪っ子のケミィちゃんよ。石工の親方のところのお孫さん」
「居なくなったっていうのは、家出か何かかい」
「分からないの。今朝から姿を見かけなくて、早くから遊びに出かけてるんだと思っていたらしいんだけど、夕方になっても戻らないって。慌てた親方のところの人たちがほうぼう探し回っているみたいで、さっき、うちにも見てないかって聞きに来たわよ」
「それは、心配だな」
ちょうど、帰宅の声を聞きつけたイウネトが、二階から降りてくる。
タイエトの差し出したビールの器を受け取りながら、彼は、ちらとイウネトのほうを見やった。だが、彼女は視線を伏せて小さく首を振るだけだ。
「お部屋に閉じこもってます。」
「そうか。…ふむ」
イウネトは黙ったまま、夕食の支度を手伝いに台所のほうへ入ってゆく。セジェムは、その姿を視線で追いながら、何か考え込んでいた。
もちろんイウネトは、メリトが落ち込んでいる本当の理由を聞いていた。
――ケミィが居なくなったのは、もしかしたら自分のせいかもしれない、と言っていたのだ。
夜に抜け出して、一緒に空き地の地下室へ行ったのは、一度きりだった。二度目は一緒に行けないと断って、それで、きっとケミィは一人で出かけてしまったのに違いない、と。
報せが来たあと、イウネトとメリトは、二人で念の為に地下室のところまで行ってみたのだ。そこは壁で囲まれていて、僅かに崩れた場所から中に入るしかないところだった。
人通りも多くて、昼間に忍び込むのは難しかったから、外からケミィの名前を呼んでみたが、返事は無かった。
もし本当にケミィが一人で夜道をそこまで行ったのなら、誰かに攫われたとか、帰り道に暗がりで足を踏み外して、工房に近い場所にある運河に落ちた可能性すらあった。
何より、居なくなったその子供は、まだ、六歳なのだ。年上のメリトが一緒なら避けられた危険や異変に、自ら飛び込んでいってしまったのかもしれない。
だが、メリトは、そのことを父に言うのを拒んだ。
「地下室のことは内緒にする」という約束だったからだ。
それに、もし地下室の話をするのなら、一回目には、こっそり抜け出して同行したことも言わなくてはならない。言えばきっと、こっぴどく叱られる。
落ち込んで、迷って、それで部屋に閉じこもっているのだった。
「あの、お義父様。チェティさんは、いつ戻られますか?」
イウネトは、夕食の皿を運んだ時に尋ねてみた。もしかしたら、年の近い、一番下の兄にならば、相談できるかもしれないと思ったのだ。
「用事が早く済めば、明日には戻れるはずだが。メリトのことかね?」
「はい…。チェティさんなら、相談できるかと。皆さん、忙しくされている時期なのは分かっていますが、そのせいもあって、メリトは遠慮しているかもしれません」
「確かにな。わしもジェフティも、夕食の席では難しい話ばかりだ。そうだな、チェティが戻ったら、話してみるといい。あの子なら、自分の仕事があっても人の困りごとは必ず聞くだろうから」
「分かりました」
イウネトは、少しほっとした顔になった。
ビールの器を傾け、パンに潰した豆を乗せてかじりながら、セジェムは、心の中で呟いた。
(はてさて。お国の事情に家庭内の問題、どちらも円満にゆくよう仕向けるというのは、実に難しいものだな)
彼は斜め向かいの、チェティが実家に戻って来たときに、いつも座っているあたりに視線を向けた。
兄二人のように地位や肩書も、人目を引く容姿も持たず、世間的には、取り立てて目立つところもない平凡な三男と思われている息子。
だが、セジェムは、彼のことを高く買っていた。
人の信頼を勝ち得るすべは持っている。
そして、どんな困難な中にも粘り強く道を見つけて、ほんの些細なところから運命を塗り替えてゆく、他の息子たちにも、彼にも持ち得ない、天啓に似た力を持っていた。
最初のコメントを投稿しよう!