第19話 行方不明の少女

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第19話 行方不明の少女

 チェティがメンフィスの街に帰り着いたのは、翌日の朝、まだ早い時間帯だった。帰路を急ぐため、岸辺に停めた船の上で寝て、日の出とともに船を出してもらったのだ。  ずっと船に乗っていたせいで、体が痛い。それに、足元が水の揺れの感覚で、ふわふわしている。  「お役人さん、無茶したなあ。」 ここまで送ってくれた船乗りが笑っている。  「おれらは生まれた時から船の上だから慣れてるけど、あんたはそうじゃないだろ。もう少しゆっくり戻ってきても良かったろうに」  「そうもいかなくて。急ぎの用事だったので――それじゃ、船の賃貸料は、あとで役所に請求してください。ぼくは、急いで報告に行ってきます」  「はいよ。お勤め、ご苦労さんです」 パイベスが貸してくれた身分証のお陰で、やりとりも最低限で済む。支払いの手間も、値段の交渉も不要だ。  街の船着き場から、北街のほうへは街の中心部を突っ切っていく必要がある。  大通りまで出た所で、ふとチェティは、急ぎのあまり食事をとっていなかったことを思い出した。  (この時間なら、まだ朝食の残りがあるかもしれない。しばらく留守にしてたんだし、いちど、家に寄って戻ったことを伝えて行こう) チェティの実家は、大通りから数本入った通りにある。メンフィスの中心部に近い一等地だ。  彼は歩き慣れた小道のほうに足を向け、旅で疲れた体を引きずりながら、道を急いだ。  「ただいま。」  「――あっ! チェティさん!」 飛び出してきたのは、イウネトだった。どこか、ほっとした表情だ。  「良かった…思ったより早かったんですね」  「うん、船の人に急いでもらったからね。何かあった?」  「えっと。メリトのことで、相談したくて…あっ、すいません。戻られたばかりなのに、後でいいですから」  「? うん。あ、朝食がまだなんだ。何か食べるものあるかな」  「あらまあ。また、腹ペコなの?」 奥から出てきた母が、苦笑している。  「あなたったら、家に顔を出す時はいつも食べ物を欲しがっているのね。お役人の仕事は、買い食いも出来ないの?」  「すいません…。ちょうど、船着き場から役所に戻る途中だったので」  「いいのよ、お仕事が忙しいんだものね。それに、息子に食べさせるものがないほど、うちは貧しくありません。はい、さっき焼いたばかりのパンよ」  「わ、有難いです。いただきます」 まだ熱々のパンに、潰した豆を乗せて食べる。香辛料が効いて、疲れた体にはとても美味しく感じられる。  夢中で食事を口に押し込むチェティの側で、イウネトは、何か言いたげに座っていた。タイエトが奥へ引っ込んでいくのを、ちらちら横目に見ながら待っている。  ひとしきり腹を満たしたところで、チェティは、声を落として口を開いた。  「…ええと、それで? メリトのことって、何」  「お友達のケミィが、昨日の朝から行方不明なの。イウヘティブさんの結婚式に来ていた子で、仲が良かったみたい」  「石工の親方のお孫さんだっけ」  「そう。それで、自分のせいかもしれないって落ち込んで…。話を聞いてやって貰えますか?」  「うん。いいけど、ケンカでもしたの?」  「頼まれ事を断ったみたい。勝手に話すのは出来ないので、その。お忙しいところで、すいませんが…」  「大丈夫だよ。早く戻れたし、ぼくの用事は、報告をすれば終わりだから」 パンを口の中に押し込んでビールで流し込んでしまうと、チェティは、指をぬぐって立ち上がった。  「行こう。メリトは、二階?」  「はい。」 階段を上がって、少女たちの寝室の扉の前に立つ。扉といっても、木の扉があるわけではない。布を下ろして仕切られた空間だ。  「メリト、いる? 入ってもいいかな」  「……うん」 中から、くぐもった鼻声が聞こえてくる。どうやら泣いていたらしい。  入っていくと、薄暗い部屋の中で、寝台の端で膝を抱えている妹の姿が見えた。  チェティは、隣に腰を下ろして、優しく訊ねる。  「友達が居なくなったって聞いたよ。何があったんだ?」  「あのね。…ケミィは、予言の壺の話を信じてて、試してみたいって…あっ、怒らない?」  「怒らないよ。何か、いけないことをした?」  「うん…ちょっとだけ」 少女は、膝に顔を埋めながら涙を拭った。  「結婚式の日にね、みんなで話をしてたの。職人街の端のほうにある、石の壁に囲まれた空き地に地下室があって、そこに置いてある赤い壺が、予言の壺なんだって。中に何か入れておくと、翌日、答えが入っているの。それで、将来の結婚相手が分かるんだって」  「へえ、それで”予言の壺”なのか。面白そうな話だけど、もしかして、それを試してみたの?」  「うん…一度だけ。誰にも見られちゃいけないってことになってるから、夜こっそり抜け出したの。それで、その時は、壺の中に別の人への答えが入ってたからって、何もせずに戻ってきてね…。」  「……答えが、入ってた?」 チェティは、ちょっと首を傾げた。  「それ、何が書いてあったか聞いた?」  「うんと、文字…お手紙みたいなのが書かれた紙切れだった、って言ってた。」  (ということは、それを入れた側も、受け取りても、文字が読めるんだな。) 書記学校のあるこの街でも、自由に読み書きが出来る者は限られている。チェティは、素早く幾つかの可能性を考えていた。だが、あくまで頭の中でだけだ、声には出さず、妹を心配させないよう、優しい声で続ける。  「それで?」  「お手紙は戻して、また別の日に試す、って。でも、何度も夜にこっそり抜け出すのは嫌だったから、次はもう付き合わないよ、って言ったの。そしたら、一人で怖いから、諦めると思って。でも…」  「…一人で地下室に行ったかもしれない、ってことか。ケミィの姿が見えなくなっていたのは、昨日の朝なんだよね」  「うん」  「二人で地下室まで行ったのは、その前?」  「チェティお兄ちゃんが、お父さんやジェフティお兄ちゃんと三人で話してた日だよ。」  (あの日か…。気づかなかったな) いや、正確には、誰かが出入りしている物音も、イウネトとの話し声も、うっすらとは聞こえていた。そう広くもない家なのだ、家族の気配くらいは分かる。  だが、用を足しに行ったとかだと思っていたのだ。まさか、こっそり外出して、職人街の外れまで行っていたとは。  「地下室には、入った?」  「ううん」 メリトは首を振った。  「壁の穴から中には入ったけど、外で待ってたの。空き地に、四角い穴が開いて階段があったけど、他は何もなかった。」  「うーん…その空き地、どこにある?」  「籠屋通りと、織機通りの間。古い石の壁があるから、すぐに分かるよ」  「そうか。分かった、行ってくる」 チェティが立ち上がるのを見て、メリトは、驚いた顔になった。  「今から? …お兄ちゃん、お仕事中だよね?」  「うん。でも、もう用事は大体終わったから。メリトの友達のことのほうが、大事だよ」 居なくなった王の遠征隊の行方は、既に判明しているのだ。それなら今は、未だ行方の見当もつかない、居なくなった少女のほうが大事に決まっている。  チェティは、考えるまでもなく、そう判断を下していた。  二階から降りてきたチェティを見て、イウネトが近づいてくる。  「どうでした?」  「何があったのかは、話してくれたよ。イウネト、メリトがこっそり抜け出すのを見逃したんだね」  「…ごめんなさい」 少女は、しゅんとなって俯いた。  「責めてるわけじゃないんだ。だけど、次からは、危なそうなことは止めて欲しいな。それと、頼みがあるんだ」  「はい。何でしょう」 チェティは、かばんから取り出した、覚書きの書きつけられた陶器の破片を差し出した。真っ白な表面に、墨でびっしりと文字が書きつけられている。  「これを、役所の州議会の書庫にいる父上に渡してきて欲しいんだ。今回の出張の調査結果だ。これを見れば、父上なら、次に何かを調べればいいか気がつくと思う」  「かしこまりました。急いで行って参ります」 イウネトは、大事に破片を受け取ると、台所のほうに駆けていった。タイエトに、これから出かけると告げるつもりらしい。  (さて、と…。) チェティのほうは、表通りに出てすぐ、職人街の方を目指して歩き出した。  (籠屋通りと、織機通りの間。古い石の壁がある空き地) メリトは、そう言っていた。  職人街には時々出かけるが、空き地があることなど、あまり気にかけたことはなかった。  そもそも、この、建物の密集する大都会メンフィスで、空き地が残されているのというのが不可解だった。しかも、石の壁とは。  普通、民家などを建てる場合に使われるのは、日干しレンガなのだ。たとえ貴族の邸宅でも、王宮でも、石を使って建てることは、しない。  石を使って建てるのは、神殿か墓だけなのだ。  だが、その疑問は、現場に行ってみれば、すぐに解けた。  確かに、そこにあるのは一見すると石の壁だったが、正確には、の組合わせなのだ。あまりにも崩れすぎて、原型が無くなっているために、元が建物だったことがわからなくなって、外から見ると壁と空き地だけのように見えている。  (確か、ここのことは、前にカプタハに聞いたことがある。)  ネフェルカプタハ曰く、城壁の内側、北西の奥に位置するそこは、大神殿の土地なのだという。ずっとむかし、今よりもまだ街が小さくて、人も少なかった時代に、聖牛の地下墳墓があった場所だったのだと。  その当時には、この場所は、街の外側だったのだ。  地下室というのは、プタハ神の聖なる動物、聖牛(アピ)の棺を置いて礼拝するための施設のことだ。  古い礼拝所が使われなくなったあとも、取り壊すでもなく、そのまま放置され、いつしか拡張された街に飲み込まれてしまったのだ。  礼拝所の本来の入り口は、北側にあったはずなのだが、その辺りはもう完全に職人街の建物に飲み込まれ、入り込めそうな隙間はない。仕方なく、チェティは、通りに面した壁の一部が僅かに崩れているところから、中に体をねじ込んだ。  (……ん) ふと足元を見ると、少女のものらしい履物が片方、落ちている。  嫌な予感がした。  履物をかばんに入れて、崩れた石の間を、そろそろと進んでゆく。  建物の石は一部がどこかへ持ち去られてしまったらしく、残っているのは基壇と建物の周囲の壁だけだ。基壇部分には、地下室への入り口が、まだ綺麗に残されている。ぽっかりと地面に口を開けた地下室への入り口の手前部分には、人が何度も通ったような、足跡と、砂の脇へ退けられたような痕跡とがあった。  チェティは、地下室の中を覗き込んだ。  人の気配も、物音もしない。意を決して、体を中へ滑り込ませる。手探りで、階段の下を目指した。  「ケミィ?」 返事はなく、声が、狭い空間に反響する。  地下室は、もとは大人が楽に立てるくらいの高さがあったのだろうが、今は下の三分の一ほどが長年の間に土に埋もれて、小柄なチェティでも、丁度、頭がつくくらいの高さだ。奥の方には、かつて聖牛のミイラ(サフ)を安置して儀式を行ったらしい祭壇が、上部だけを土から突き出している。  そして、傍らには確かに、赤い壺がぽつんと置かれていた。  (これか――。) 赤い壺は、葬儀の際に割られる品なのだ。意味を知っている大人なら、汚れたものとして触ろうとしないだろう。  だがチェティは、ここが元は墳墓ではなかったことを知っているし、壺が新しすぎることにもすぐに気がついた。祭壇は埋もれているのに、壺は全く埋もれていないし汚れてもいない。まるで新品だ。最近になって、誰かが持ち込んだものなのは確実だった。赤い壺ならば、たとえ誰かがここへ入り込んだとしても、敢えて触るはずがないと思って。  だとしたら一体、誰が何のために、そんなことを?  チェティは、慎重に壺に触れた。どんな些細なことも見逃さないつもりだった。  持ち上げた時、中で、カランと小さな物音がした。  「…ん?」 なにかが入っている。  ひっくり返してみると、色付きの石が転がりだしてきた。石工の工房で削られて出るような、輝石の破片だ。  (これは…。ケミィが持ち込んだものか) 以前、イウヘティブのところへ行った時、幼い少女が工房に落ちている石を大事そうに集めているのを見かけたのだ。彼女は、それを、壺に答えを貰う代償にしようと考えていたのかもしれない。  他には、何も入っていなかった。  最初にここへ来た時に入っていたという、絵の書かれた手紙のようなものは、誰かが回収していったのだろう。或いは、ケミィがここへ来た番に、その回収に来た人物と鉢合わせて、口封じのために何処かへ連れて行かれてしまったのかもしれない。  (でも、誰も何も見ていないし、気づいていない。…もし気づいていたら、衛兵が反応していたはず) 他にも手がかりはないかと振り返ったチェティは、ふと、入り口から差し込む光の中に、土の上に残されている大きな足跡に気がついた。  (最近のものだ――) 履物の底の部分だ。大人の、男性の足跡に違いない。それも、かなり大柄な人物のらしい。  自分の前に、誰かがここへやって来て、地下室に入っていたのだ。その足跡には、魚のうろこのようなものが一つ、こびりついていた。  (川魚か。…港のほうを通ってきたのか?) 暗がりの中に目を凝らしても、他に手がかりは無さそうだ。  そろそろと地下室から這い出した彼は、拾った色つきの小石と魚のウロコを、光の下でじっくりと観察した。  それから、周囲の壁を見やる。  ――すぐ側まで、近所の工房の壁が迫っている。通りに面した一方向以外は、全て壁だ。だが、明り取りの窓以外は開いておらず、誰かがこの空き地をう上から覗き込む可能性は少ない。声を上げれば聞こえるだろうが、何かが起きた時、大きな物音はしなかったのだ。  ケミィは、確かにここへ来た。そして、大柄な成人の男と出くわした。  彼女の行方を知っているはずの、その男は、今、どこにいる?  と、その時、石壁の向こうから、人の声がした。  「おーい、中にいる人! 誰か、中に入っていったろ? ここは立入禁止だ。出てきなさいー」  「あっ、すいません。」 この時間は人通りも多い。きっと、誰か近所の人に見咎められて、巡回の兵に通報されたに違いない。  最初に中に入った、狭い隙間から這い出すと、思った通り、外に警邏(けいら)隊の兵士が腕組みをして立っていた。  「困るんだよなあ、ここ、大神殿の土地なんだけど」  「古い祭壇ですよね。すいません…、行方不明になった、妹の友達の小さな女の子を探していて。ここに入り込んだかもっていう話しだったので、中を確かめていたんです」  「うん? 行方不明って、石工の工房の親方んとこの子か」  「あ、はい。親方の孫で、ケミィっていう子です。もう通報がいってたんですね」  「そうだよ。川に落ちたか、人さらいにでも遭ったのか、目撃情報は探してるんだが…」 巡回の兵の口ぶりからして、まだ何も、有力な情報は得られていないようだった。  「この中で、履物を見つけたんです。」 言いながら、チェティは、拾った片方だけの履物を差し出した。  「その子、夜こっそり抜け出したかもしれないんですが、一昨日の夜の巡回で異常はありませんでしたか?」  「えっ、ここで? 無いよ。というか、すぐ隣が宿舎つきの工房なんだ。いつも人がいるし、騒ぎが起きていたら、誰かが聞いてるはずだろう」  「そうですよね…。」 チェティは、首を傾げた。  「とりあえず、この中に探している子はいませんでした。これから、親方のところへいって、この履物がケミィのか見てもらうことにします」  「おう、ご苦労さん。何かあったら、兵の詰め所のほうに来てくれ。…って、あんたは役人か。なら、場所は知ってるよな」  「はい。必要があれば、あとで寄ります」 巡回の兵と別れ、チェティは、石工の工房が並ぶ通りへと、足を急がせた。
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