第2話 街角の結婚式

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第2話 街角の結婚式

 季節は移ろい、気温が下がるとともに、国土の中央を流れる大河ナイル(イテルウ)の水位も、増水期に比べると随分と下がって来ていた。  暦の上では「播種季」と呼ばれる四ヶ月に入っているが、実際には、既に主要作物の種蒔きはほぼ終わっている。チェティたち税収役人も、種蒔きを終えた畑の面積を調べ終え、次期の税収予測を作り終えて、あとは収穫の季節を待つばかりだった。  芽生えの季節になれば、畑ですることは、ほとんどない。日の挿す時間が日毎に短くなり気温も下がってゆくこの季節、新たに植え付ける作物もなく、川べりの農民たちには、つかの間の農閑期が訪れていた。  北の方からやって来る渡り鳥を捕まえに葦の原へ出かけるなど副業に勤しむ者、涼しいうちにと家を直すなどの重労働に精を出す者。はたまた、人生の節目を意味する催事に挑む者――。  そう、農閑期は、農村や一般庶民の間で結婚の多い季節でもあった。  収穫の終わったあと、次の増水が始まるまでの農閑期も結婚する者が多い時期なのだが、いかんせん、少しばかり暑いのだ。そのため、女性たちには、化粧の崩れにくい涼しい季節のほうが人気がある。  かつてチェティの部下だったヘンレクも、結婚して親戚の家に養子に入るため、少し前に役所を退職して実家に帰って行った。  さすがに貴族の家の結婚式には呼ばれていないが、実家のご近所さんの結婚式ならお声がかかる。  そんなわけで、チェティは、今日は州役人の仕事は休みを取って、ご近所さんの家の結婚式に出席するために、宿舎の前で次兄と待ち合わせていた。  次兄ペンタウェレのほうは、通り一本挟んだ隣の兵舎のほうからやって来る。同じく休みを取って来たのだ。二人とも宿舎で寝泊まりしているから、待ち合わせはしやすかった。  「おう、お待たせ。そんじゃ行くか」  「うん」 二人は並んで、メンフィスの街の中心部を目指して歩き出す。  州都メンフィス。  ここは、かつて長らくこの国の首都だった、この国でも一、二を争う大都市だ。  街並みは城壁を越えて大きく郊外まで広がっており、役所関連の建物や州兵の兵舎があるのは、北に拡張された「北街」。  対して、チェティたちの実家のあるのは、古くからの中心街で、西門から城壁の外側に出る西門通りに近い、一等地にある。先祖代々メンフィスに住み続けてきた、由緒正しい住民たちの暮らす一画だ。  「なあチェティ、ほんとに、クソ兄貴は出席しないんだよな?」 長兄のジェフティとは極力顔を合わせたくないペンタウェレは、もう何度目か分からない質問を口にする。  チェティは苦笑しながら、同じく、もう何度目かわからない同じ返答をする。  「うん、今日は居ないよ。抜けられない大事な会議があるんだって。父さんも出るって言ってたから、たぶん、州知事側と大神殿側の打ち合わせとかじゃない?」  「へえ…珍しいな」 州政府の長である州知事と、大神殿の長である大神官は、もともと、あまり仲が宜しくない。それは、周知の事実だった。  気位の高い州知事が、自分に匹敵する権威と実権を持つ大神殿の長を一方的に嫌っている、という、ある意味ではくだらない政治的な理由ではあったが、これまで、意図的に無視したり敢えて接触を避けたりすることを繰り返してきた。  その両者が、当人同士ではないにしろ代表者を出し合って打ち合わせをするなどと、ここ十数年、絶えて無かったことのはずだった。  とはいえ、今は、国防に関わる緊急事態の起きている重要な時期だ。  川の下流の幾つかの州が、王に公然と叛旗を翻したのだ。  川の上流と下流で国を分ける場合、中心はメンフィスとなる。そのメンフィスから下流、「下の国」と呼ばれる領域の東部分が、独自に王を擁立し、勝手に即位式まで行ってしまったという。  今すぐではないにしろ、その独立したもう一つの国が、東から入ってくる異国人の傭兵を雇って上流に攻め上るのは、時間の問題と思われた。そうなれば、首都イチィ・タウィの手前で最終防衛線となるのは、このメンフィスの城塞なのだ。  「打ち合わせとやらの内容が気になるな。なんか、また、面倒なこと言いつけられなきゃいいんだが」 ペンタウェレにとっては他人事ではない。何しろ彼は、かつて国境の砦の守備隊にいたことが理由で、帰郷後ほどなくして、いきなり州郡の精鋭部隊を任される羽目になったのだから。  「あとなあ、何か言いつけられたあとで、その作戦がクソ兄貴の発案って分かるのが嫌だ。あいつの言いなりに動くのだけは絶対避けたい」  「そんなこと言われても。…元が誰の案だったって、別にいいんじゃないですか? 兄さんのところは執政官どのの直属の部隊なんですし、実際に命令を下すのは、執政官どのでしょう」  「それは、そうなんだが…。」 ペンタウェレは、とにかく長兄が嫌いなのだ。  嫌い、といっても「憎い」というよりは「苦手」のほうが近い。幼少期の心の傷というか、お互い維持を張り合ったままというか、…チェティに言わせれば、「どっちもどっちで大人気(おとなげ)がない」。  長兄はチェティより七つ年上、次兄は六つ年上。もう、いい大人なのに、何故か十年以上も前のことをひたすら引きずって、お互いのことに対してだけ、妙に子供っぽい言動を取ってしまうのが不思議だった。  (少しは歩み寄ってもらえると、嬉しいんだけどな…。) 内心溜め息をつきつつも、チェティは、これから向かうご近所さんの結婚式のほうに思いを馳せていた。  ご近所さん、と言ったが、正確には、ひとつ隣の通りに家を構える顔見知りだ。  新郎は、その家の跡取り息子。年はチェティより五つか六つは年上で、つまりは、ジェフティやペンタウェレのほうが年齢が近い。  「新郎のイウヘティブさんのこと、覚えてる? むかし書記学校に通ってて、兄さんの同級生だったこともあるらしいんだけど」  「少しはな。確か、工房で修行してた奴じゃないか? 墓に納める石碑に碑文刻むのに、文字を知らなきゃ形がおかしくなるからって読み書き習ってたはずだ。学校にいたのは数年で、オレが家出る前にはもう、石彫りの修行のほうに戻ってたんじゃないかな」  「うん、そう聞いてる。たぶん合ってるよ」 行く手に、結婚式の行われている通りが見えてきた。賑やかな音楽と、人々の談笑する声、それら、女性たちが舌を頬に打ち鳴らして上げる甲高いお囃子の声が聞こえてくる。  結婚式のやり方は、決まっていない。この街では、新しく夫婦になった二人のお披露目の会として宴会が行われることを「結婚式」と呼んでいる。  招かれた人々は、二人が夫婦になったこと、互いに責任を持ち合う関係となったことを認めて、祝福するとともに、証人となる。そういう会だ。  結婚届のような書類や決まりは、特にどこにも管理されていない。近所に住む人々の証言が、結婚という事実を確固たるものとして成立させる。  それに、新しく嫁入りしてきた人、あるいは婿入りしてきた人を近所に紹介するという意味あいもある。  裕福な家庭なら、より多くの人々を招待し、豪勢にお祝いをやるものだが、この辺りの庶民的な家庭では、せいぜい、ご近所さんと親戚を呼び集めて、もし余裕があれば楽士でも呼んで、食事会をやるくらいのものだ。  通りに入ると、賑やかな音楽が耳に届いた。  ちょうど、催し物の真っ最中だ。この家は、奮発して結婚式に楽団を呼んだらしい。音楽とともに人々が踊り回っている。  その輪の中で、照れたような笑みを浮かべた初々しい新夫妻の二人が立っていた。どちらも、新しく下ろした白い亜麻布の服を着て、緑の葉で編んだ飾りを身に付けている。この季節は花が少ないから、常緑の木の葉で彩りを添えているのだ。  来客たちに振る舞われているのは、上等のビール。それに、庶民では滅多に食べられない牛肉まで、誇らしげにかまどの前に吊るされて、料理されるのを待っている。  「へえ、けっこう派手にやってんじゃねえか。若いのに、えらく金を貯めたんだな」  「イウヘティブさんももう、一人前の職人だし。そりゃ、腕が良ければ儲かるよ。」  「なるほどねえ」 ペンタウェレは、納得したような顔だ。  結婚式には近所の子供たちも集まっていて、花嫁は、編んだ葦の中にお菓子を収めた引き出物を、手ずから渡して周っている。この日のために、精一杯着飾ったのだろう。丁寧に編み込んだ髪や、はっきりと引かれた目尻の黒い色の化粧、頬紅などが映えて、輝くように美しく見える。そして、手や髪には、上等の香油が使われていた。  少女たちは、うっとりした様子で、そんな花嫁の様子を見つめている。  その中に、妹のメリトと、チェティの婚約者であるイウネトもいるのに気がついて、チェティは、思わず微笑んだ。  婚約者、とはいうものの、お見合いでなし崩し的にそう決まったようなもので、実際には、イウネトはまだ十一歳なのだった。妹とも年はほとんど変わらない。つまりは、チェティより五歳ほど年下だ。結婚するとしても、あと三、四年は先になる。  今のところ、チェティにとっては、イウネトも妹のようなものだった。  「あら、あんたち。到着してたの」 振り返ると、母のタイエトが手にビールの器を持って立っていた。  「ちょうど、いま来た所です。」  「それじゃ、乾杯からね。はい、器持って。」 それぞれ、手に器を渡されて、そこに壺からビールが注がれる。  「新しく家を構える若者たちに、乾杯!」 新郎の親族らしい男の合図で、そのへんに居た人たちが器を差しあげる。  踊り続ける人々、雑談に夢中な人、花婿と花嫁にべったりくっついて離そうとしない親族、とにかく皆、てんでばらばらだ。勝手にビールを次々空ける呑兵衛がいれば、まだ準備中の料理の鍋を勝手に開けて女性たちに叱られている食いしん坊もいる。  これが、庶民の結婚式なのだ。村祭りなどと大して変わらない。  大騒ぎの中、ビール片手に周囲を見回していたペンタウェレに気づいて、花婿が近づいてくる。  「もしかして、ペンタウェレ?」  「ああ、そうだ。」  「やっぱり! 軍人の道に進んだって聞いたけど――ずいぶん、久しぶりだなあ。それに、立派になった」  「あー、クソ兄貴の話はするなよ。いいか、一言でも、比べるようなこと言ったらビールぶっかけるからな」 花婿は、思わず吹き出した。  「まだ、ジェフティさんのことが苦手なの? 書記と軍人で全然違うじゃないか、比べたり出来ないよ。」  「ふん。分かってればいいんだよ」 ビールをぐいと飲み干しながら、ペンタウェレは、ちらと花嫁のほうに視線をやった。  美しい横顔だ。年は、花婿とそう変わらない。  だが、その顔には、どこか見覚えがあった。  「…あの嫁さん、もしかして、お前がむかし告白したがってた女の子か? 恋文の添削をしてくれ、とか言ってきた…。」  「わあっ、覚えててくれたんだ。そうだよ、そう。工房の親方の娘さんなんだ。」 イウヘティブ青年は、照れたように頭をかいた。  「親方がなかなか認めてくれなくてさ。去年、ようやく一人前の彫師って認められて、結婚の許可も貰えたんだ。いやあ、随分待たせちゃったよ」  「ほぉー、初恋を十年拗らせてようやく結婚、ねえ。一途な愛だなあ。こりゃ目出度(めでた)い。よし、うんとお祝いしてやるよ、クソ兄貴の分までな」  「あはは、そいつは有難い。今日は、楽しんでいってくれよな」 花婿は明るく笑って、ペンタウェレの肩を叩いてから花嫁のほうへと戻って行く。  ペンタウェレは、十年ぶりに会った昔の同級生と、かつてのその想い人の晴れやかな姿を遠目に眺めながら、ビールの入った器をゆっくりと傾けていた。  お祝いごとは、夕方まで続く。  今の季節は日が暮れるのも早いから、それほど長い時間でもない。五、六時間も騒いだあと、日暮れ時には解散だ。新郎新婦は、壁を塗り直して晴れやかな装いに変えた家に戻っていく。  チェティは、母や妹たちと一緒に実家に戻ることにした。  意地でも長兄のジェフティと顔を合わせたくないと言うペンタウェレとは、そこでお別れだ。  「うーん、久しぶりに普通のお祝いごとに参加したな。近所の連中も、あんま変わってないみたいだった」 別れ際、ペンタウェレは、母のタイエトと立ち話をしていた。  「そうねえ。お前ったら、ちっとも家に寄り付かないんだもの。戻ってきてたって知らない人も多くて、あれは誰だ、今何をしてるんだ、って、ずいぶん聞かれたわよ」 母は、そう言って笑う。  「イウヘティブとは、話せたの?」  「ああ。学校時代のことを少し。一人前の彫師になれたって聞いたよ」  「そうなのよ、今日は、そのお祝いも兼ねてたの。それじゃ、ペンタウェレ。また、いつでも家に戻って来なさいね」  「はいはい。分かってますよ」  「”はい”は一回でよろしい」 ちょっと肩をすくめて大通りのほうに向かって去っていく二番目の息子の背中を、母は、困ったように見送っている。  「あの子ったら、いつまで意地を張る気なのかしらね。まあ、昔に比べてずいぶん明るくなったみたいで良いことだけど…本当は、お見合いの話もしたかったんだけれどねえ」  「……え?」 チェティは、思わず母の方を見やった。  「お見合いって言ったた? いま」  「ええ。ペンタウェレも、もう、いい年でしょ。今日はその、お披露目のつもりもあったのよ。ジェフティだけじゃなくて、ペンタウェレにだって、いい縁談が来ると思わない?」  「……。」 チェティは、思わず額に手をやった。  長兄に続き、次兄まで母のお節介の餌食になってしまうのか。いや、分かっていたことではあるのだが、…この分だと、余計に実家には寄り付かなくなりそうだった。  「あら、何よチェティ、その顔。まさか、あの子、もう気に入った人がいたりするの?」  「聞いたことはないけど、一応、確かめてから縁談を持っていったほうがいい気がする」  「じゃあ、聞いておいてくれる? 好みはどんな人なのか、とかも」  「えぇ…。」  「そのくらい、いいでしょ。ジェフティは意地でも結婚しないし、ペンタウェレまで独り身のままだったら、困るじゃない」  「いや、でも…。」 一本隣の、家のある通りに向かって歩きながら話す母と息子の後ろで、少女たちは意味深な視線を交わし合っていた。
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