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第20話 転機―チェティ
イウヘティブの勤めている工房は、ケミィが姿を消した古い礼拝所跡からは、真っ直ぐに行けば通り数本分しか離れていない。子供の足でも、すぐに行って戻れるくらいの距離だ。これだけ近ければ、日が暮れてから、こっそり訪れてみたいと思う気持ちも分からなくはない。
工房を覗いてみると、今日は職人たちはほとんどおらず、人が出払っているようだった。イウヘティブも、工房の前で頭を抱えて座り込んでいる。
ただ、工房の奥のほうからは、ノミを振るう音が聞こえている。あの強面の親方は、こんな日でも仕事の手を止めないのだ。もしかしたら、仕事に没頭することで、不安を紛らわせようとしているのかもしれないが。
「イウヘティブさん」
声を掛けると、若い職人がゆるゆると顔を上げた。
「――あ、ああ。チェティか…」
目の下に隈がある。ケミィを探し回ったからか、疲れ切っている様子だ。
「ケミィのこと、妹のメリトから聞きました。昨日から戻っていないって」
「そうなんだ…心当たりのあるところは全部回ったんだ、それでも見つからないなんて…。川にでも落ちて、流されたんだろうか。どうして…どうしてこんなことに…」
「あの、これ」
かばんから取り出した片方だけの履物を見せる。
「ケミィのものでしょうか」
「――!」
若者の目が大きく見開かれた。
「そ、そ、そうだよ、これ…! 一体、どこで…!」
「籠屋通りと織機通りの間にある、古い時代の聖牛の礼拝所です。友達同士の間で、そこの地下室に予言の壺があるって噂が広まっていたらしくて、それを試しに行ったんだと思います」
「は? え? 予言の壺…?」
ぽかん、となっているイウヘティブに、チェティは、メリトから聞いた話を説明した。壺の中に何かを入れておくと返事が来る、という、子供ならではの空想めいた噂について。
若者の顔が、だんだんと険しくなっていく。
「…そうか。あの話、聞かれてたのか。それで…」
手にした履物を見下ろしたまま、彼は、ぽつりと呟いた。
「何か、知ってるんですか?」
「ああ。ケミィは、きっと取引を見たと思われて連れて行かれたんだ…チェティ、詳しいことはあとで説明するよ…でも、今は…」
「分かってます。まずはケミィを見つけることが先ですよ」
頷いて、イウヘティブは深い溜め息をついた。
彼の様子からして、何かを知っていることは確実だった。それが何かは、まだ、分からないが。
仲間たちに出かけてくることを告げると、イウヘティブは、真っすぐに船着き場のほうに向かって駆け出した。大神殿の船着き場と、街の船着き場の間あたり。大型船の多く停泊している辺りだ。
「あいつらは、船で来たんだ。多分、港のどこかにいる」
「あいつらって?」
「下流から来た貴族の使いだ。名前は…何だったかな。ケンミス? ケンメス? そんな感じだった。ずいぶん、羽振りが良さそうな奴で…。」
小走りに人混みをかきわけながら、イウヘティブは自嘲するように唇の端を吊り上げた。
「あの地下室は、取引きの場所だったんだ。舞い上がってた。おれの腕を買ってくれてるんだと思って、引き抜きの話に、思わず、それっぽい返答をしちまった。ちょうど結婚式を控えてたし、二人で新しい街に行くのもいいかなって…、そうすれば、親方にガミガミ言われることもない…。」
とりとめもない言葉の端から、チェティは、彼が言わんとしていることに気がついた。
「取引って、引き抜きに応じたんですか?」
「手付金は、受け取った。」
「どんな品でしたか」
「顔料に使う鉱石だった。オアシスで採れるやつだ、いい値段で売れたよ。それを結婚式に使ったんだ」
「……。」
では、楽団を呼んで、酒や肉料理を揃えて、豪勢な祝宴を開けたのは、工房での稼ぎだけではなく、その手付金のお陰だったのか。
「取引きには、地下室に置いてあった赤い壺を使ったんですか」
「そう。別の街の工房に行くって話は魅力的だったけど、工房で話してるのを親方に見つかったら警戒される。それで、あの場所を使うことにしたんだ。最初に引き抜きの話に乗ったのが、おれで、だから色々頼まれてたんだ。最初は、見込みありそうな若い連中の名前や、あいつらが欲しい職人のいる工房の場所を書いて入れていた。それから…あとは…そう、いろんな…やりとりをしてた。手配してほしい品が書かれてれば代わりに持っていったり、代金の受取もしたし。ああ…誰かがきっと、地下室でやりとりをする話を、立ち聞きしてたに違いない。それで、変な噂が広まったんだ」
(子どもたちの誰かが、イウヘティブが地下室でコソコソしているのを知って、想像を膨らませて”予言の壺”なんていう噂を作り出したんだな…。)
分かってしまえば、いかにも子供らしい、他愛もない勘違いだらけの空想の産物だった。ただ、そこには一片だけ、危険な真実の欠片が紛れ込んでいたのだ。
地下室の赤い壺には確かに、返事の手紙が入っていた。そして、秘密のやり取りをしている者たちも実際に存在した。そして、その一方は、後ろめたい取引のことを誰にも知られたくないと思っていた。
「でも、どうしてケミィを攫ったりしたんでしょう。今の話を聞く限り、別に犯罪に関係するようなやり取りではなさそうでした。職人の引き抜きは、たしかに世間体の悪い話ですが、小さな女の子に知られたくらいで口封じが必要なものじゃないですよね?」
「く、口封じだなんて…! そうだよ、そうだよ。おれが親方に叩き出されるかもしれないってくらいで、別に、あいつらはバレたってどうってことないんだ。どうせ、あと数日もすれば自分たちの街に帰るはずなんだし」
「あと数日? それじゃ、滞在期間はあと数日なんですか」
「そう言ってた。何か、注文してる品の出来上がるのを待ってるって。それが終わったら、帰るって言ってたよ。」
「引き抜いた職人たちも連れて行くつもりなんですか?」
「まさか、全員船に乗せるなんて無理だろ。契約書を書いて、あとから来るようにって。…おれも、契約書に名前を書くつもりだった。ケミィがいなくなったりしなければ…。」
船着き場まで一気に駆け抜けたイウヘティブだったが、そこまで来て唐突に足を停めた。
彼は、泣き出しそうな顔になっていた。
「どうしよう。どの船か全然わからない。おれのせいで、あの子に何かあったら…。」
「落ち着いて。ゆっくり探しましょう。」
とはいえ、この季節、船着き場にはたくさんの船が停泊している。大型船も、立派な貴族の船も。
それに――。
「ああ、駄目だ」
切羽詰まったイウヘティブは、諦めたように呟いて、街のほうに向きを変えた。
「ケンメスだ。ケンメスを探してくる。あいつなら、顔を覚えているから…」
「あっ、待ってください」
止めようとした時にはもう、彼の姿は港前の雑踏の中へと消えている。切羽詰まって、落ち着いて考えるということが出来なくなっているらしい。
一方のチェティは、まだ、冷静なままだった。
(船、――じゃ、ないな。多分…)
もしもケミィが攫われてどこかへ連れて行かれたのだとしても、六歳の、きっと泣きわめくだろう元気のいい女の子を、自分の船に連れ込むような真似はしないと思った。もし声が漏れたり、姿を見られたりして怪しまれれば、その時点で足がついてしまう。
怪しまれないようにするには、万が一見つかっても、無関係を装えるような場所。もしくは、人の居ないような街から離れた場所ではないだろうか。
(だとしたら、一体どこだ?)
チェティは、さっき礼拝所の地下室で見つけた大きな足跡と、魚のうろこを思い出していた。
あそこに出入りしていたのが、ケンメス本人でないことは確かだ。立派な身なりの書記が、こそこそ夜中に廃墟を出入りするなど考えにくい。だとしたら、下男か、船乗りか、手の者を寄越したに違いない。
その”誰か”は、間違いなく、港街を経由して職人街へやって来た。
夜、暗くなってから船を乗り降りしたとも思えない。街のどこか、港に近い場所で、夜中に出入りしても怪しまれないところに隠れてじ、人々が寝静まるのを待っていたのだろう。
(そういう場所が、あったかな…?)
考えながら、彼も、通りをゆっくりと歩き出す。
今いる場所は、船着き場前の通りのいちばん端、大神殿の通用門に繋がる場所だ。そして反対側は、大通りと交わる交差点、その先まで行けば、街のいちばん南端の運河に出る。途中には宿場街、そして倉庫街もある。
通りを歩いていたチェティは、ふと、何か香ばしい匂いが漂ってくることに気づいて顔を上げた。
(屋台だ)
川の対岸と行き来する渡し船や、乗り合いの定期船が発着する区域。最も人通りが多く、大通りに出やすい場所で、人が集まるから屋台などの店も多く集まっている。
匂いは、川魚を焼いて売る屋台から漂って来ていた。目の前の川でとれた新鮮な魚を丸ごと焼いて、塩をふって出している。よほど美味しいのか、荷運び人や船乗りなど、この辺りで働く人々がこぞって買い求め、そのへんでムシャムシャと立ち食いしている。それで、通りに、食べかすのうろこや骨が散乱しているのだった。
何気なく眺めてい彼は、はっとした。
立ち食いをしている労働者たちの中に、一人、明らかに風貌が違う男がいる。体格の良い、軍人か、傭兵のような人物だ。日に焼けた肌。服装は、この国のものだが、異国出身なのは間違いない。
(さっき見た足跡…多分、あのくらいの体格の人だ)
見ている前で、その男は魚を食べ終わり、滓をぽいと川辺に投げ捨てて歩き出す。
特に何か、怪しいと思うような理由があったわけではない。だが、チェティは、直感に従ってあとをついて歩き出した。
船乗りではない。荷運びにも見えない。
そういう格好ではないのだ。まるで街人のような、少し裕福な服装をしている。
それに、足取りは街に慣れているように見えた。辺りをきょろきょろしてもいない。大都会であるメンフィスに初めて来た人なら、普通は、もっと辺りに目を奪われるはずだった。
チェティのまずい尾行にも関わらず、人混みの中で男を見失うことはなかった。よく目立つ体格のせいで、人混みから頭が突き抜けて見えるのだ。
その大柄な男は、船着き場に面した貸し倉庫街のほうへと向かっている。積み荷の受け渡しや別の船への積替えのために貸し出される倉庫で、小分けされた区画を持つ建物が並んでいる。
高価な荷物を保管している倉庫には見張りが立っていることもあるし、船乗りが宿として寝泊まりしていることもある。もちろん巡回の兵も頻繁に出歩いていて、この街でも最も警備の厳しい場所の一つだった。
まさか、こんなところに何か怪しいものがあるとは、誰も思わないに違いない。
そう、ケミィが隠されているとしても、ここであるはずはないのだ。
だが、もし、声も上げず、身動きもせず、倉庫街で見かけても誰も疑問を抱かないようなものなら――?
男が姿を消したのは、いちばん端の、周囲の倉庫とは入り口の方向が別になっている小さな薄暗い倉庫だった。両隣に他の倉庫の入り口がないぶん、人通りもなく、誰も中を覗き込んだりしなさそうな場所だ。
入り口に、ロバが一頭、繋がれている。荷運びに使ったものだろうか。
(…さっきの人、いなくなっちゃったな)
倉庫の中に入っていったようにも、見えなかった。
どこへ消えたのだろうと思いつつ、チェティは、半開きになった倉庫の入り口に近づいた。
中を覗き込むと、入り口から差し込む光の中で、固く口を縛られた亜麻の袋が数個、置かれているのが見える。それほど広くはない倉庫だ。置かれている荷物も、ロバ一頭分か、そこらにしかならない。わざわざ倉庫を借りてまで保管する必要があるようには見えなかった。
(荷物の運び出し中? 他の荷はもう、船に積んでしまったあとなんだろうか)
倉庫の奥の袋に近づいて、中身を確かめようと端を持ち上げかけた彼は、意外な重さに、ぎょっとして手をひっこめた。
(これは――)
中で、石のこすれあうような音がした。
中身はすべて石だ。いや、鉱石――或いは、宝石か。
足元に落ちている、色鮮やかな粉に気づいて、しゃがみこんで指で粉をこすった。
(顔料……)
瞬時に、何が置かれているのかに気がついた。
オアシス産の、顔料の材料となる鉱石。
――行方不明になった遠征隊の積荷。ロバで、二頭分だけ別に運ばれた、メンフィスに運び込まれたのではと言われていた品…。
最後の謎が繋がった時、後頭部に、がつんと強い衝撃が走った。
声を上げることも出来なかった。振り返ろうとして、チェティはそのまま、地面に崩れ落ちた。
目の前が暗くなっていく。
「…い、何を?!」
頭上で、慌てたような男の声がする。年配の男の声だ。
「つけてくる役人がいたんだ。ここを嗅ぎ回っていた。荷を見られたぞ、始末するしかない」
低くく、太い声。僅かに訛りがある。
「仕方がない、だが、目立たないよう――ん? おい、待て。首に、何か」
首のあたりが引っ張られるのを感じたが、意識が保てたのは、そこまでだった。
ぐったりとして気を失ったチェティを見下ろして、倉庫の借り主と、荷の見張りをしていた男とは、困惑した顔をしていた。
「…州の印章だ。州知事の正式な使い…まずいことになった」
「高官か? そうは見えないが」
「この印を持っているということは、少なくとも下級の、取るに足りない役人ではないだろう。下手に殺せば大騒ぎになる」
「なら、どうする」
「出発までは行方をくらませて頂こう。例の子供といっしょに放り込んでおけ」
大柄な男は、やれやれというように首を振った。
「そのまま埋めたほうが、楽なのだがな」
「殺せと命令を下すのと、捕虜が勝手に死ぬのは別だ。たとえ死後に神々に裁かれるとしても、罪は少しでも軽い方が良い」
「は! 小鳥を縊り殺すのと、羽根をむしって逃がすのなら、ひと思いに殺してやるほうが、まだ温情があるだろうに。わしの故郷ではそういうものだが、この国の人間は違うらしいな」
「そう。この国では違うのだ。あとの始末は頼むぞ、ザビブ。あと数日、それで終いだ。何事もなく乗り切らねば」
「……。」
雇い主が去っていったあと、男は、足元に転がっている若い役人を見下ろした。
そして、無造作に足を掴むと、手足を縛り上げて空になった亜麻袋に突っ込んで、表に繋いであったロバの背に乗せて、何事もなかったかのようにゆっくりと倉庫街を後にした。
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