第9話 偽名の貴族と石碑の名

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第9話 偽名の貴族と石碑の名

 メンフィスの街の職人街は、街の西側と南側に広がっている。西側は、川から運河を引き込む辺りだ。石材など重量物を運びこむ必要のある石工や、各種の船を作る船大工など、間取りの大きな工房が多い。そして南側では、月に一度の(いち)の立つ通りに近い場所で、庶民の生活に使われるような品、たとえば籠や織物など細々したものが作られている。  チェティが訪れたのは、もちろん、西側の工房のほうだ。謎の貴族、セヘティイブケルが注文を出していたとしたら、そちらにあるような特殊な工房のはずなのだから。  とはいえ、やみくもに片っ端から聞き込みをしていたのでは、とても時間が足りない。  チェティは、まず高級船である木造の船を作るのが専門の船大工のもとを当たることにした。  貴族ともなれば、移動のためにも、船遊びのためにも自家船くらいは持っているだろう。ことによったら、何隻も持つことだって珍しくないのだ。  狙い通り、最初に訪ねた造船所で、「セヘティイブケル」の名を聞いた覚えのある職人が見つかった。  「ああ、その貴族さまなら、最近発注に来たよ。三ヶ月前くらいか。ちょうど先日、出来上がった船の引き渡しをしたとこだ」  「どんな船を作ったんですか」  「底の浅い、川で使う貨物船だよ。よくあるやつだ。装飾はお抱えの芸術家と相談して決めるから、ガワだけ急ぎで作ってくれって言われて、装飾なしで作ったんだ。ありゃあ、川の下流の、流れの変わりやすい支流向きの種類だね」  「なるほど、ありがとうございます。」 ここより下流の、小さな支流が何本も混じり合う中洲の多い地域――下流から来た貴族なら、この辺りに屋敷は構えていないのかもしれない。  「その人は、どんな容姿でしたか? 過去に、他に仕事を受けたことはありますか。」  「うーん、注文に来たのは執事っぽい人だったし、引き渡しの時も船乗りは自前で連れて来て受け取りをしてたから、どんな貴族なのかも、どこに住んでるのかも知らんよ。依頼を受けたのは、その時が初めてだったようだね。ほとんどの代金は前払いだったし、急ぎということで追加料金も支払っている。気前のいい大貴族様だろうな」  船大工は親切にあれこれと調べて教えてくれたが、知っていたのは、それだけだった。  「その貴族様が、どうかしたのかい? お役人さんが探しているなんて」  「オアシス(ウェハト)に向かった隊商が一つ、戻ってきていなくて行方を探しているんです。その貴族の人が同時期に隊商を送ったようなので、何か関係しているか念の為、調べているだけです。」  「ほー、あの貴族様、隊商も雇ってたのかい? ずいぶん金があるんだなぁ」 人のいい職人は、感嘆の声を上げた。  「けど、今までそんな大富豪の貴族さまの話は、一度も聞いたことがなかったんだ。最近になって成り上がった家なのかねえ?」  「分からないですが、もし、その貴族の人がまた依頼してきたら、詰め所にご連絡いただけると有難いです。よろしくお願いします」 これだけではまだ、何が起きているのか分からない。ただ、謎の貴族が実在することだけは確認出来た。  それにしても、新造で船を発注するとは、よほど財力のある家柄なのだろうか。  次に向かったのは、石工たちの多い区画だ。  ここで作っているのは、小さなものだと葬儀のための小さな石製品や護符、大きなものだと個人的な礼拝所のための神像や、神殿に奉納する王の立像。貴族なら、墓に納める副葬品や礼拝室の石碑のために、必ず一度は石工に発注をがることがあるはずだった。  さすがに、石で棺を作るような酔狂な者は最近では滅多に居ないが、墓に付随する礼拝所に、自らの名前と業績を刻んだ立派な石碑を建てたがる者は多く、そのために、文字の読み書きが出来る石工は重宝されている。  (もしかしたら、問題の貴族は、最近になって家を継いだ貴族なのかもしれない) さっき船大工の所で、船を発注したのが初めてと聞いて、チェティはそう思い始めていた。  以前は家主ではなく、次男か三男の目立たない立場だったのではないか。だとしたら、今まで一度も名前が話題に上がらなかったのも不思議ではない。  家の主が代替わりするとしたら、死者が出た時だ。もしそうなら、墓のために故人の名を刻み、功績を讃える石碑は、依頼されたはずだった。  通りに足を踏み入れ、ノミの音が響く店を一軒ずつ覗き込みながら歩いていた時、誰かが彼の名を呼んだ。  「あれえ? チェティじゃないか」 振り返ると、つい数日前に結婚式で顔を合わせたばかりの近所の若者、イウヘティブが、笑顔で手を上げていたい。  「どうしたんだい、誰か探してるのか」  「今日は仕事です。イウヘティブさんのほうこそ、結婚したばかりなのに、休暇をとらなかったんですね」  「繁忙期でさ、親方が許してくれなかったんだ」 若者は、明るく笑う。  「それで? 仕事って、何だい」  「ある貴族が、この辺りに仕事を依頼しに来たかどうかを確認したいんです。」  「貴族? 貴族なら、うちにもよく依頼をしてくるよ。ほら」 イウヘティブは、自分の工房の中を指した。通りに面した明るい場所には、日干しレンガを積み上げて作った作業台や道具があり、その上に、掘りかけの石灰岩の板が置かれている。  表面は平らに仕上げられ、上部は丸く、下半分は長方形。典型的な、墓に置くための石碑だ。貴族の墓に入れられる品だ。墓主の名前とともに肩書を並べ立て、大仰に業績を誇る。掘りかけの板の上には、お決まりの定型文が下書き用の墨で書かれている。  「セヘティイブケルって人の依頼を受けたことは、ありますか? 最近、船大工とロバ飼い組合に言ったことは分かっているんですが」  「聞き覚えがあるな…? ちょっと待って、台帳を見てくるよ」 イウヘティブは、他の石工たちの間を縫って、工房の奥へ入っていく。  それと入れ替わるように、物陰からチラチラこちらを見ていた幼い少女が駆け出してきた。前歯が乳歯の生え変わり中で、一本抜けている。  少女は、チェティのことなど見向きもせずに、作業台に近づくと、そこに落ちていた色付きの石を幾つか、さっと手の中に隠した。  気付いたイウヘティブが、奥の方から怒鳴る。  「あっ、こら、ケミィ! 仕事道具に触るなっていってるだろ!」  「ごめんなさい~」 少女は、手の中に隠したものを握ったまま、奥の方へ駆け込んでいく。  「まったく、油断も隙もない…。すいません、姪っ子が」  「あの子、結婚式にも来てましたよね」 チェティは、少女の奥へ駆け込んでいったほうを見ている。  「うん、妻の姉の娘なんだ。工房によく出入りしててね」 イウヘティブは目を細めて、好ましげに笑う。  「懐いてくれるのはいいんだけど、何にでも興味を持ちたがる年頃で…。ノミなんかもあって危ないから、近づくなと言ってるんだが」  「石工の仕事に興味があるのかも。あの子も、将来は工房の職人を伴侶に選ぶのかもしれませんね」  「それなら、親方は喜ぶだろうな。初孫のケミィのことは、とても可愛がっているから。――さて、台帳を見てようか」 作業台の上を空けて、イウヘティブは台帳の巻物を広げた。  受注日、納品日、受け取った代金。検品が終われば行の最後に赤い墨で印をつけてある。その繰り返しだ。  問題の貴族の名前は、一ヶ月程前の場所に見つかった。  「あった、これだ。セヘティイブケル…葬送用の石碑だ。ちょうど今、親方が作ってる最中だなあ。」  「親方が?」 親方とは、もちろん、工房で一番地位の高い、熟練した職人のことだ。工房の主であり、そこで働く若い職人たちはみな、親方の弟子のようなものなのだ。  「ご指名だな。一番の職人に掘らせてくれ、って指名料を払って依頼してる。彫り込む内容も持ち込みだ。貴族には良くある」  「でも、一ヶ月前に依頼されてまだ彫っているって、ずいぶん時間をかけているんですね」 掘りやすい石灰岩の石碑なら、もう仕上がっていてもおかしくない。  葬儀には通常、死者が出てから二ヶ月ほどしかかけられないのだ。死者の遺体の処置は、正式な手順では七十日で行うことになっている。  「手の込んだ品なんだと思う。親方は奥の中庭で仕事してるんだ。聞いてみるか?」  「お願いします」  「こっちだ。足元の石の破片に気をつけて」 イウヘティブの案内で、チェティは、工房の奥に繋がる中庭へと向かった。  静かな中庭では、白いひげを口元に蓄えた男が、平らな石の板を前に、光に斜めにしながら掘り具合を真剣な顔で確かめている。  一目で、芸術家肌の妥協を知らない職人だと分かる。手元の赤黒い石に彫り込まれた線は、表の工房で作られていた品と全く違う繊細で力強い窪みを作っている。メンフィスの誇る、第一級職人の手技だ。  「親方、州役人の人が来られてます。親方の請けてる、その仕事について聞きたいと」  「うん? ――お役人が、何の用だ」 手元から顔を上げて、男は、迷惑そうな顔をした。仕事の邪魔をされたと思っているのだろう。  チェティは、手早く用件を告げた。  「西のオアシス(ウェハト)へ向かった隊商の一つが戻っていないことについて、執政官どのから調査を依頼されています。行方不明になった隊商と同時期にメンフィスのロバ飼い組合で案内人を雇ったのが、セヘティイブケルという貴族なので、その人に話を聞きたいと思っているのですが、住んでいる場所も分からず困っています」  「つまり、客の居場所を教えろということか?」 親方は、ふんと鼻を鳴らした。  「知っての通り、うちでは依頼人の住所なんぞ聞かん。知るわけない、が答えだな」  「この近所の貴族でないことは確かです。それに、どうしても知りたいというわけでもありません。ただ、この件は急ぎで、手がかりを一つでも得たいという状況です」 チェティは、なおも食い下がる。それとともに、親方の手元の、掘りかけの石碑のほうに視線をやっていた。  ――石碑の材質は、固い花崗岩だ。  なるほど。時間がかかっていた理由にも納得だ。それに、掘るのに技量が要る。工房の、若い未熟な試食人には任せられないわけだ。  それに――。  (……?) 石碑に刻まれた名を見て、チェティは、思わずはっとした。意外な人物名を見てしまったのだ。  「なら、答えられることは何もない。この品はいま仕上げの最中で、出来上がるまで一週間はかかる。気になるなら、その頃に工房に来て、受取人と話しをすればよかろう」  「…分かりました。お邪魔して、申し訳有りませんでした」 気位の高い工房の主人に軽く頭を下げ、チェティは、大人しく引き下がった。  一級の職人たちは、王家の仕事を指名で請けられる。その腕一本で家族も養えるほどの収入があり、チェティのような一介の州役人などよりはるかに高給取りなのだ。  それに、相手が貴族でも、気に入らない依頼なら断ることさえ自由だ。彼らに頭を下げさせる事ができるのは、職人たちの守護者であるプタハ神に仕える、神官くらいのものだろう。  「ごめんよ。親方は気難しい人だから」 イウヘティブは、申し訳無さそうな顔をしている。  「いえ、仕事中に話しかけたこちらも無作法でした。お邪魔しました」 工房を離れながら、チェティの頭の中では、さっき職人の手元に見えた故人の名と疑問が、ぐるぐると回っていた。  葬送のための石碑は、死者が出てから故人の家族が依頼を出すことが多い。だから、石碑に書かれているのは依頼人セヘティテイブケルの名前で無かったこと自体は不思議でもなんでもない。  引っかかったのは、書かれていたのが奇妙にも、つい最近、別の事件で関わった人物と同じ名だったことだった。  (――故人の名は、”レフェルジェフレン”…) それ以外に家族の名らしきものはなく、石碑の上部に故人の姿と名があった以外は、オシリス(ウシル)神に捧げる祈祷の呪文だけが刻まれていた。  石碑に刻む文言や呪文の元文を客が持ち込むことは珍しくないが、通常は、石碑の中に家族についての言及も盛り込むものだ。墓というのは、一族の墓でもあるのだから。  (家族が居なかったか、疎遠だったか。もしくは家族は、別の墓に収められる予定なのか。…しかも、同じ名だ。) レフェルジェフレンが大神殿で亡くなり、未亡人となった若い後妻が葬儀への立会を拒否して去っていったのが、数ヶ月前のこと。  似たような境遇の同じ名前の人物が、同じような時期に死ぬことなど、果たして、在り得るのだろうか?  そのあとチェティは、時間の許す限り、他の工房も周った。  同じ貴族から依頼を受けたという工法は、他にも幾つか見つかった。  金細工師、宝石細工師、それに家具職人。  誰か知り合いや家族の分までまとめて発注していたにしろ、かなりの金額になるはずの品が、いずれも、支払いに遅延なく取引されている。注文の量や頻度からしても、相当な高官か、裕福な貴族であることは間違いない。  ただ、本人は発注や品の受け渡しに出向いていない。ほとんどの場合、執事風の書記が、主人の代理として店を訪れていた。  役職者や立場のある人間なら、代理人を立てること自体は不思議ではない。州知事ウクホテプだって、かつて身内の葬儀の品を調達するために、州政府の高官を私的に駆り出したものだ。  (――もしかして、依頼人は有名な人なのか…?) チェティにも、うっすらと事情が見えてきた。  謎の貴族「セヘティイブケル」は、本人が出歩くか、本当の名で依頼するだけで噂になるような人物なのに違いない。  そう、たとえば、王その人や、王家の誰かのような。だとすれば、偽名での発注も頷ける。  だが、王家の人間が、わざわざ偽名でメンフィスの工房に発注をかける理由など思いつかない。  相手が王だと分かれば、工房の人々はいつにも増して手をかけて発注された品を作るだろうし、王家に品を納める名誉のために、代金を割り引いてでも仕事を受けたがる職人はいるはずだ。それに、石工のところで作らせていた墓のための碑文には、「レフェルジェフレン」という名だけがあったのだ。  (分からないな…) 既にとっぷりとと日の暮れた道を、実家の方向に向かって歩きながら、チェティは考え込んでいた。謎の貴族の正体は、いまだ見えてこない。  この時間からでは門限までに役人の宿舎には戻れないし、今夜は実家に泊めてもらって、戻ってきた父や兄と話をしたほうがいいかもしれない。  あの石碑に刻まれた人物は本当に、チェティの知る、”あの”レフェルジェフレンなのだろうか。だとしても、あの男に後継者が居なかったことも、既に葬儀が終わっていることも確かだ。  それに、レフェルジェフレンの家は傾きかけていたという話も聞いていた。謎の貴族”セヘティイブケル”は王族に匹敵するほどの資産家で、この辺りの住人でも無さそうだった。どうにも情報が噛み合わない。  考えながら歩いていたせいで、彼は、前を見ることを忘れていた。  「あっ」 狭い路地の途中で、体格の良い男とぶつかりそうになって、彼は思わず声を上げた。  「すいませ…」 だが、男は素早い動きで彼を避け、無言のままにすれ違っていく。頬に大きな傷跡があり、それを隠すようにヒゲを生やした。異国人風の顔つきの人物だ。  すれ違った一瞬、鼻の奥につんとするような、いやな匂いがした。  (…死臭?) 衣類の端に染み付いた、屍体のような、肉の腐った匂い。  思わず振り返ったチェティの目の前には、人のいない空っぽの通りだけがある。  男の姿は、もう、通りのどこかへと消えていた。
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