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「綾瀬さん。僕、しばらく図書室にはこれないと思う」
先輩にそう言われたのは、去年の一月だった。
「三年生はもう、委員会の仕事もなくなりますもんね」
「うん。それに、受験までの間、放課後は毎日塾に行かなきゃいけなくて」
五十川先輩は私を見て、困ったように溜息を吐いた。私がじっと先輩の目を見ると、先輩はびくっとして目を逸らす。
怯える必要なんて、全然ないのに。
「分かりました。受験、頑張ってくださいね」
寂しくなります、なんて言えるほど私たちの距離は近くない。私たちの関係には名前なんてなくて、ただ、たまたま同じ図書委員になっただけだから。
じゃんけんで負けて図書委員になった私と違って、先輩は最初から図書委員志望だった。その話を聞いた時、だろうな、と思ったのを覚えている。
物静かで落ち着いたところも、下級生相手におどおどしているところも、なんだかそれっぽいな、なんて感じたのだ。
「あ、あのさ、綾瀬さん」
「はい」
「受験が終わったら、その……花見とか、行かない?」
は? と声が出そうになったのを慌てて我慢する。そんなことを言ってしまったら、きっと先輩はもう私を誘わなくなってしまうだろう。
先輩は、繊細な人だから。
「……えーっと、なんで花見なんです?」
なんとなく前髪を整えながら先輩に尋ねる。男子高校生が女子を誘うなら、もうちょっと他にあるんじゃないだろうか。
遊園地とか映画館とか。まあ、五十川先輩らしいと言えば、らしい気もするけれど。
「だって、綾瀬さん、桜好きでしょ?」
そんなこと言いましたっけ? と聞き返す前に記憶を探ってみたけれど、全く思いつかない。
「ほら、最初に会った時、窓から見える桜が綺麗だって言ってたから……だから、好きなのかなって」
早口で五十川先輩に言われ、ああ、と私は思い出した。
私と五十川先輩が、初めて会ったのは前の4月だ。先生が勝手に図書委員の放課後当番を決めたせいで、私は先輩とペアになったのである。
正直、最初はかなり嫌だった。できれば同級生の女子がよかったのに、ペアを組むことになったのはおどおどした男の先輩だったんだから。
でも今は、先輩でよかったなって、思ってしまっている。なんだか悔しいから、言ってあげないけれど。
「確かに、言いました」
私の言葉に、ぱあっ、と先輩が笑顔になる。表情が乏しいように見えて、慣れると先輩は分かりやすいのだ。
桜が綺麗ですね、と声をかけた。でも別に、それは桜が好きだからじゃない。話すことが何もなくて、沈黙が気まずいからとっさに言っただけ。
なのに先輩は、ずっとそれを覚えてたんだ。
「それで、どうかな。その、花見に行くの……あ、えっと、嫌だったら、全然、あれなんだけど……」
俯いて、先輩は両指をいじり始めた。
なんでこんなに自信がなさそうなんだろう。私が断るかもしれないって、本気で思っているんだろうか。
「それ、デートのお誘いですか?」
「えっ? あー、その……うん」
先輩の頬はちょっとだけ赤くて、視線は相変わらず泳いでいて。
でも、私を見つめる目は、今まで見たことがないくらい真剣だった。
「いいですよ。花見、一緒に行きましょう」
「……本当に?」
よかった、と安心したように微笑む先輩の笑顔が甘くて、私まで笑ってしまう。
学校の外で先輩に会うのは初めてだ。
一緒に花見をしたら、私たちの関係は変わるんだろうか。
どんな服を着て、どんな髪型をして、どんなメイクをしよう。きっと先輩は、私が頑張ったって、その努力の一割にも気づいてくれない。
でもきっと、嬉しそうな顔で私の名前を呼んでくれる。
「受験、応援してます」
「うん。終わったら、すぐ連絡するね」
「約束ですよ」
「うん」
先輩は確かに頷いたし、約束、と繰り返してくれた。
けれど、その約束が果たされることはなかった。
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