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エピローグ 1
「澤田さんですね?」
幼稚園から出て来たタイミングで声をかけると、澤田薫は驚いたように「ええ、そうです」と頷いた。彼女の顔に警戒も不審の色もないのは、一重にこの制服の力だろう。彼女の手に繋がれたまだ四歳の息子は、目を輝かせながら自分を見上げている。微笑んでみせると、まだ幼い少年は丸いほっぺを膨らませるように満面の笑みを返してくれた。
可愛い子だ。もし自分にもこんな孫がいたならば……。
叶うことのない願いに、顔を母親の方に戻した。
こちらを窺うように見ている他の母親達には聞こえないように、小さく、それでいて緊迫さを込めた固い表情で告げる。
「実は、あなたのご主人に脅迫状が届きまして」
さっと変わった顔色に、煽る様に付け加える。
「今日の選挙結果に関わらず政治から身を引け。さもなくば、家族の身に危険が及ぶことになるぞ、という内容です。何かあってからでは遅いので、急いで保護しに参りました」
「主人や、お義父様達は大丈夫なんですか?」
「他の者が警護しているので大丈夫です。向こうに車を停めていますので、付いて来てください」
「私が乗って来た車はどうすれば?」
「何かが仕掛けられていたら困るので、とりあえずそのままにしておいてください。後で他の者にでも取りに行かせますので」
「わかりました」
何の疑いも持たず、彼女は息子の手をしっかり握り直しながら自分の後に続いた。時折不安そうに周囲を見回す。
車は人気のない離れた場所に用意しておいた為、案の定周囲に人影はない。「こちらです」と後部座席の扉を開くと、「パトカーじゃないの?」と子供が不思議がった。
「パトカーは悪い人達を捕まえるための車だから、今日は使わないんだ。君とお母さんは悪い子かな?」
「僕良い子」
子供は母親の手を離すと、自ら車の中に乗り込んだ。いらぬ不信感を抱いては困ると、苦笑いを母親に向ける。
「例の殺人事件の犯人が捕まったので、今パトカーは全部出払ってるんですよ」
「逃走中だった警察官ですよね」
言い終えたと同時に、しまったとでも言うように口に手を当てる母親。
「あんな事件を起こしてしまい、同じ警察官として本当に申し訳ないとしか言いようがありません」
そう言いながら「さあ、どうぞ」と中に入る様に促すと、母親は己の作り出した気まずさから逃げるように、車に乗り込もうと自分に背を向けた。すぐに右手に用意していた紐を目の前の細い首に巻き付け、勢いよく引き上げる。とっさのことに短く上がった呻き声と共に、母親の手が紐を引きはがそうと喉元を引っ掻く。それでも締め続けると、気絶したのか、だらんと崩れ落ちる身体を慌てて車内に押し込みシートベルトを締めた。子供は座席に用意していた絵本を夢中になって読んでいる為、母親の異変に気付く様子はない。
脈を確認すると、死んではいないようだったので安心した。地面に落ちたハンドバッグを取り、中に入っていた携帯の電源を切る。周囲を見回し、目撃者がいないことを確認してから扉を閉めた。
一息つき、腹部の傷を確認すると、中に来ていたシャツに血が滲んでいた。それでも痛みを感じないのは薬が効いているからか、それとも痛みを感じる機能が低下している為か。どちらにせよ痩せ衰えた体には、いくら女性とはいえ死に物狂いの抵抗は堪えるものがあった。
でもこれが一番手軽な方法なのだと、彼女は教えてくれた。刑事ドラマなんかではクロロホルムやスタンガンで相手を気絶させるシーンがたびたび出て来るが、実際にそれだけで相手を気絶させるのは難しいそうだ。
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