男のいい分 あいうえおSS「か」

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
『男のいい分』  家族というものはなんでも許し許されるシェルターのようなものだと思っている。いや、思っていた。あの日までは。  だってそうだろう? 男は一歩外に出れば七人の敵がいるというじゃないか。  日置貴雄はものすごい勢いでキーボードを叩きながら思った。  その言葉通り、現在社内は油断ならない状況だ。創業者一族の3代目が社長の座から退くのを来年に控え、後継者争いが静かに展開されている。4代目が全く違う道で成功したこともあり、株主として関わるが直系に拘らず継承してもらう事を早々に決めていた。順当にいけば現在の副社長に決まるだろうが、これがチャンスとばかりに専務派と企画部長派が水面下で熾烈な争いを始めている。それは副社長派も例外ではなく、今まで以上に足場を固めようと「副社長崇拝者」が動いている。現社長の右腕として、バブル後の不景気、リーマンショックなど厳しい局面を乗り切ってきた手腕だ。加えて現在進行中のプロジェクトリーダーでもある。 「日置くん、頼りにしてるからな」  副社長が貴雄の肩を叩いた。 「日置……日置貴雄!」  大きな声で呼ばれてハッと顔を上げた。目の前に険しい顔をした佐竹涼子が仁王立ちしていた。 「なんだ佐竹か」 「もう就業時間過ぎてるよ。急ぎ?」 「……いや、あーうん」 「どっちよ。まあ、急ぎじゃないよね。行くよ」 「どこに?」 「飲みに」  佐竹涼子は不敵に笑った。  佐竹涼子は酒豪の女傑だ。大学からの同期でかれこれ20年近い付き合いで、旦那の秀一郎の事もよく知っている。そもそも秀一郎の方と友達だったのだ。 「で。紗枝ちゃんとなんかあったんでしょ」  駆けつけ一杯とばかりに生ビールを一気飲みした佐竹涼子がいきなりえぐってきた。貴雄は飲み込もうとしていたビールを吹き出した。 「やだ汚なっ」 「いや、お前のせいだろ」 「ふーん、当たりかあ」  貴雄は佐竹涼子を恨めしそうに睨んだ。仕方なくある日突然、紗枝が離婚届を置いて出て行ったこと、まだサインをしていないことなどを話した。 「なんで突然出て行ったのか全くわからない」 「はあ?」  5杯目のビールジョッキを手にした佐竹涼子から2度目の「はあ?」が出た。 「だって、家事だってできる範囲で手伝ってるし、飯だって文句言わずに完食。まあ、会話は少し減ったかなって思うけど。不妊治療だってあいつが辞めたいって言ったから、そうかって。仕事に復帰したいっていうのも許してやったし」  ちゃんとやってるじゃんという言葉が出てくるかと思いきや、佐竹涼子は口を歪めてアッパーカットのように3度目「はあ?」で貴雄を突き上げた。 「手伝い? 許してやった? あんた何様? あーやだやだ。自分の友達が自立できてないモラハラ男だったとはね」 「モラ……秀一郎だって似たようなもんだろ」 「違うね。少なくとも秀ちゃんは私が仕事をすることを許してやってるなんて思ってないし、不妊治療をしてる時、一緒に泣いたり笑ったりしてくれたよ。あんたさ、紗枝ちゃんが不妊治療辞めるって言った時、ちゃんと話した? 話してないよね。一番辛い時、寄り添ってた?」  貴雄は佐竹涼子の言葉に後頭部を思いっきり叩かれた気がした。  家族はシェルターのようなものといいつつ、自分は紗枝にとってのシェルターではなかったのか。 「全く寄り添ってないよね。紗枝ちゃんの幸せ願うなら早く離婚届にサインしな」 「嫌だ!」  佐竹涼子の一言に思いの外大きな声が出た。これには貴雄も驚いた。  俺は嫌だったのか。紗枝と別れるのはー嫌なんだ。  その時、テーブルの上のスマホが震えた。画面に表示されたポップアップに「書いた? 早く送ってください」とあった。紗枝だ。貴雄は勢いよく席を立つとカバンを掴んだ。今ならまだ紗枝の実家へ行ける。 「悪い、金は明日払うから」  慌てているせいで蹈鞴を踏んで転びそうになる。店員を避けて店を出ると駅まで駆け出した。  一人残された佐竹涼子は5杯目のビールを飲み干すと、夫へと電話をかけた。 「ねえ。今からこっち来れる? 秀ちゃんの友達を肴に飲もうよ。ん? いいことかもね」  佐竹涼子の声は弾んでいた。 了
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!