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 就職祝いにと、両親から贈られた黒いダブルのスーツに袖を通し、黒い柄物ネクタイを締める。  子ども時代には「死」を他人事だと思っていた。  川で溺れたり、交通事故に遭ったり、病気だったりして亡くなった人の話は聞いたが、こんなに身近で起こり得るとは想像できなかった。  内ポケットに香典を入れると、部屋を出た。  出不精(でぶしょう)な北迫にとって、友人に会いに出掛けることも珍しかった。  マンションの階段は薄汚れていて、隅には黒ずんだ(ほこり)がこびりついている。  いつかホームセンターで買った(ほうき)できれいにしよう、などと考えるうちに路地に出た。  斎場までバイクを飛ばして、20分ほどで着く。  勝川の交友関係は、意外と狭かった。  高校の同級生が数人いる他は、親戚が多いようだ。  建物に促されて、香典を渡すと控室で彼の思い出話などをした。  テレビやゲームの話題などを、昔は笑いながら話したものだが互いの近況を淡々と話していると、職場での苦労がにじみ出る。  心の(すき)が少なくなって、からかう余裕もなくなった。  だれもが自分の人生を、懸命に歩いているのだと改めて思い知らされた。  そして、故人も ───  まだ記憶に新しい勝川の顔は、安らかだった。  ほとんど日焼けしていない肌。  少し緩んだ口元。  今にも目を開けて話かけてきそうだった。  焼香の順番を待つときに、前列の席に矢澤の姿があった。  ハンカチを顔に当てて嗚咽(おえつ)を押さえてすすり泣いていた。  俺が死んだら、こんな風に誰かが悲しんでくれるだろうか。  人は、何に価値を見いだすのだろう。  仕事をして、家事をして、自分のために絵を描いて、心のバランスを辛うじて保って生きている。  そんな自分に、価値ある「死」が訪れるのだろうか。  葬儀が終わり、お(とき)の料理が振る舞われた。 「こんな事でもないと、集まらなくなっていくのかもな」  仲間内の誰かが言った。  歳をとるごとに、孤独が深く影を落とす。  若くして死ねば、人生の春のままで時が止まる。  そんなに簡単に割り切れるものではないだろうが。  勝川は死を恐れていたはずだ。  だから虚しい命を野望に焦がし、俺の心に焼き付けて逝ったのだ。
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