二、理由

3/4
前へ
/18ページ
次へ
 閉めきった古い四畳半の部屋は、ふたりの熱がこもって蒸し暑い。天下井は周防の巨躯の下からずるずると這い出て、腰高窓を半分ほど開けた。  周防の下宿は、ごみごみと民家の建てこむ界隈にあった。もともとは周防の伯父という人が借りているひと間を、周防が又借りしているのだという。周防の伯父は新聞記者で、特派員として欧州各国から上海、満州と飛び回っている。だからこの部屋には当分戻らないらしい。  下宿は士官学校からごく近い立地だが、細い路地のどん詰まりにある安普請のボロ家で、候補生たちと鉢合わせする心配はない。しかもこの部屋は一階の奥の間で、通行人の目も気にしなくていい。つまり、こうした密会にはたいそう都合がよかった。  開けた窓から、わすがに風が流れこんでくる。  裏庭の土の匂いの混じる湿った風だった。  それでも室内の蒸し暑さはいくぶん和らぐ。天下井は裸のまま、窓のふちに肘をかけながら紙煙草に火をつけた。周防にも一本さしだして火を点けてやって、しばらくふたりで黙って煙草を()んだ。 「周防は、どうしていた。久留米の輜重大隊はどうだ」 「俺の原隊など、よく覚えていたな」 「それくらいは覚えてるよ」 「大所帯で戦績もある大隊だからな。俺もすぐに外地に行くことになるだろうな」 「そうか」 「貴様のほうはどうしていた、天下井」 「うん……まあ、上官からも兵卒からも、しごかれてるよ」 「なんだ、のんきだなあ」  周防は灰皿をひきよせて煙草の火を消し、薄い万年床にごろりと寝ころんだ。 「貴様は天下井家の御曹司だから、隊でも大事にされてるんだろうな。人気者だろう」 「だから、俺はそんなふうに思われるのは好かんと言ったはずだ」  天下井がむきになると、周防が笑いながら詫びた。 「そうだった。すまん」  ふだんは朴訥として表情のない周防が笑うと、意外なほど無邪気な顔になる。目が優しい。天下井はまたしても彼の笑顔に胸を射抜かれた。古畳の上を這っていって、周防の横にごろりとする。 「周防は、身内に軍人がいるのか」 「いないよ」 「どうして陸軍軍人を志したんだ」 「親父が早死にして貧乏だったからな。俺は五人きょうだいの末っ子でな、ひとりだけ歳が離れている。母や兄姉はかわいがってくれたが、どうにも身のおきどころがない。士官学校なら学費も下宿費もかからんと聞いて、軽い気持ちで召募試験を受けたら受かってしまった。母は寂しがって泣いてたな」 「つくづく、貴様はできすぎた奴だなあ」
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!

45人が本棚に入れています
本棚に追加