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「ひとつ、思い出したことがあるんだ――」
天下井は、周防の横に肩を並べて窓辺にもたれかかった。脳裏に昔の記憶が浮かびあがる。
「俺が幼年学校にあがってまもないころの話だ。我が家が家族ぐるみで親しくしていた父の上官という人がいてな。騎兵中将だった。中将の嫡男も軍人だった。少尉に任官したばかりで、輝くばかりの青年将校だったよ。俺にはきょうだいがいないから、少尉を年の離れた兄のように慕っていた。しかしあるとき、少尉は突然、自決してしまった。軍機漏洩の疑いをかけられた、というようなことを、父が母に話していたのを覚えている。真相はわからんのだ。しかし俺は、彼が自身の潔白を証明するための、あるいは冤罪に対する強い抗議の表明だったと信じている」
天下井の話に、周防はじっと聞き入っている。いつもと変わらない無表情だったが、その目には穏やかな温もりがあって、話の続きを待っていることがわかる。天下井は安心して話しつづけた。当時の感覚がありありとよみがえってくる。
「しかし将校の自決とあっては、少尉の父上である中将も無傷ではおられん。葬儀でお目にかかったのが最後だった。葬儀では将官らしく堂々として涙のひとつも落とされなかったが、幼い俺の目にも、あきらかに失意にくれて病みやつれておいでだったよ。まもなくほんとうに重い病にかかられて退役なさった。そして息子のあとを追うように亡くなった」
「……」
「俺も少尉にあこがれていたから、心にぽっかりと穴があいたようだった。しかし彼の自決については、俺の父をはじめとして誰もが口をつぐんでしまったんだ。まるで最初から彼という軍人は存在しなかったかのようにな。それが悔しかった」
天下井はそこで小さく息をついた。
「でも、俺もこうして周防に話すまで、ずっと誰にも言えずにいた。あんなに慕っていたのに、俺はなにもできなかった。……いや、なにもしようとしなかった、というほうが正しいな。薄情なものだ」
天下井は自嘲めいた笑いをもらした。しかし周防は笑わなかった。
「そんなことがあったか。つらい思いをしたな」
「つらくはない。俺も軍人だから。ただ……寂しかった」
「そうだな。寂しいな」
周防は素直な言いかたで天下井の言葉をくりかえす。それが微笑ましくて、つい顔がほころんだ。
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