三、幸せ

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「そんなことはない。平凡で平和な日常こそ(とうと)いのだと、俺たち軍人こそ自覚しておかねばならん。それに死を恐れる感覚も忘れてはいけない。ときには尻をからげて逃げるのも戦術のうちだ。部下を死なせるなよ、天下井。彼らは俺たちのように志願して兵になった者ばかりではない。徴兵されてきた奴らを無駄死にさせてはいかん。彼らには故郷に家族がいて、兵役が終わった先にはそれぞれの暮らしがある。俺たち指揮官がしんがりを務めて生き残り、次の機会を待てばいい。生きれば、次がある」 「……そうだな」  天下井もつまらぬ意地を張るのはやめた。しみじみと周防の顔を見やって、ほんとうの気持ちを伝えた。 「周防。俺は貴様にも死んでほしくないのだ。俺たち軍人の命など、皇国と大元帥(だいげんすい)陛下の前には小さな石礫(いしつぶて)のようなものにすぎない。しかしだからといって、いたずらに(なげう)っていいものではないと思うのだ」 「ああ、貴様の言うとおりだ」  周防が天下井の顔をまっすぐに見返してくる。  天下井も彼の顔をまっすぐに見た。  こんなつかのまの沈黙さえ愛おしかった。天下井がそう思って胸いっぱいの感傷を味わっていたのに、周防がまた奇天烈なことを言う。 「天下井は、あの世に行ったことがあるか」  天下井は今度こそ吹き出して大笑いした。 「あるわけないだろ。周防はあるのか」 「ないよ。俺も生きて、また貴様と他愛もない話がしたい。死んであの世で再会できるとわかっていればいいが、俺はあの世に行ったことがないからわからん。しかしこの世でなら、生きてさえいればまた会えるだろう。貴様は死なすには惜しい。俺は貴様のような男を生かすために輜重に行くんだ。死ぬなよ、天下井」 「うん、……うん」  天下井は何度もうなずいた。  周防のことが好ましい。彼もはっきりと自分に好意を向けてくる。しかしその感情は、恋とも、愛とも、情とも違う気がした。周防の態度には湿度がない。あれほど濃密に身体を重ねていながら、執着や束縛がまるで感じられなかった。まっすぐで乾いた好意が心地よかった。  天下井は大きくひとつ息をつき、すっきりとした気持ちで顔を上げた。 「周防。俺は生きるぞ。貴様も、死ぬな」 「ああ。でも、そういうことは学校内では口に出すなよ」 「当然だ。周防だから言っている」 「うん。それでいい」  今度こそ、周防は白い歯を見せて笑った。  そこで自習室に候補生たちがなだれるように入ってきて一気に騒がしくなった。天下井は急いで周防のもとを離れて自分の自習室に向かう。  戸口でもう一度振り返った。  周防はまだ穏やかな笑顔でこちらを見ている。  天下井も笑った。そして素早く身体をひるがえした。   ――完――
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