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結局、予科時代に天下井が周防と肌を合わせたのはただ一度だけだった。
それはほかの男とのそれのように、ごく短い交合だった。
しかしほかの男とのそれのようには、すぐに忘れてしまえるものではなかった。
予科卒業間近という浮ついた時期のできごとゆえに忘れえぬのか。相手が周防だったから忘れえぬのか。いずれにしても天下井は、周防と過ごしたあの日をずっと忘れられずにいた。
◆
予科卒業から半月後の九月一日は残暑が厳しかった。
天下井は西国の陽に灼けた凛々しい顔の周防と再会した。
「よう、周防候補生」
「おう、天下井候補生」
冗談めかしてそのように呼びあった。
周防は藍色の兵科章に、星の襟章。
天下井は萌黄色の兵科章に、星の襟章。
この市ヶ谷臺で、今度は陸軍士官学校本科生としての生活がはじまる。
「周防は、今度の日曜は何してる」
天下井の言葉に周防が目を昏く光らせた。
気持ちが逸る。
強い視線が行き交った。
「用事は何もない」
「貴様の下宿先は予科のころと同じか」
「ああ」
「では――」
「いいとも」
交わした言葉はごくわずかだったが、互いの欲望の在り処を確かめあうためにはそれで充分だった。
本科の修養年限は一年十か月。
なんと短い年限かと天下井は思う。
卒業後は原隊ですぐに任官される。大規模な戦役で戦線に出れば生きて再会する保証はない。陸軍大佐の父を持ち、幼年学校時代から戦場で散ることこそ本懐とたたき込まれてきた。しかし。
――俺たちは死ぬために軍人になるわけじゃない。
予科卒業間近に周防と交わした言葉を思い出す。
天下井は一日も早く周防と話がしたかった。
(「二、理由」に続く)
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