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一 元藩主の末娘
「遠子。遠子はどこにいるの」
「はい、奥様」
春の朝。遠子は濡れた手を前掛けで拭きながら部屋に顔を出した。使用人の遠子を見た奥方のサイはキリキリと怒っている。
「お前、昨日、道端で赤い財布を拾って交番に届けたそうだね」
「はい」
「どうしてそんなことをしたのよ」
「え」
サイは面倒くさそうにため息をついた。
「面倒なことをしてくれたわね! あの赤い財布は、うちに来たお客さんの落とし物だったんだよ」
「そ、そうだったんですか」
すぐに紛失したことに気がついた客は道を引き返したが、既に物がなかったと言う。
「あの人は遠くから来ている人だったんだよ! だから交番に行ったのは深夜になってしまって、お前が私に届けてくればお客さんにすぐに返せたのに、余計なことを」
「すみません」
……道に落ちていたから、うちのお客さんだとは思わなかったわ。
さらにその財布は女物であった。拾った遠子はてっきり女性が落としたのだと思い交番に届けていた。そもそも落とし主を知る由もない遠子を、サイは理不尽に怒り続けた。
大正時代、群馬県館林の町。秋元遠子は十七歳。旧藩主の娘である。秋元家は藩主であったが、戊辰戦争後、廃藩となり華族となった。老齢だった父は仕事の経験がなく、資産運用で失敗し借金を多く残し亡くなった。
兄は仕事をしながら老齢の母を抱え、姉たちは嫁いだが、少女だった遠子は借金先の手塚商店で奉公をしていた。
「全く! 役に立たない娘だね」
「申し訳ございません」
サイの怒りの波が終わるまで遠子は謝り続けた。やがて怒り疲れたサイに解放された遠子は、屋敷の家事を始めた。屋敷の使用人たちは遠子に優しかった。
「遠子、そういえば今日は例の家庭教師が来る日だよ」
「そうか、ではお部屋をもう一度見てくるね」
……お部屋をきれいにしておかないと!
遠子は中年の使用人のウメに言われてユマが使う部屋を見に行った。最近、主の手塚吾郎は娘のユマに勉強をさせようと熱心になっている。部屋を確認しようと遠子が声をかけて部屋に入ると、誰もいなかった。
……よし、汚れはないわね。これなら問題ないわ。
「何をしているのよ」
「あ。ユマ様」
遠子が挨拶として頭を下げると、ユマはお気に入りのワンピースを着ていた。その頬はうっすらと染まっている。
「退いてよ。私は勉強するのだから」
「すみません、あ!」
ユマはわざと遠子にぶつかりながら、部屋の椅子に座った。机の上には課題なのか、本や用紙があった。遠子はユマに会釈してから退室し、ウメの元に戻った。
「ウメさん。お部屋は綺麗でした」
「そうかい……あ、そんな話をしていたら来たようだね」
玄関からは出迎えたサイの猫撫で声がしてきた。ご機嫌な様子のサイは若い男性家庭教師とおしゃべりしている様子がこの台所まで聞こえていた。ウメはお茶のためにお湯を沸かしながら小声で語る。
「遠子、どうしてユマ様に勉強させているか、やっとわかったよ。会社の試験を受けさせるためなんだって」
「会社の試験って。ユマ様が?」
「そう! みんな驚いているんだよ」
ウメの話によれば、ユマは地元の製粉会社の事務員の試験を受けるために勉強をしているということだった。遠子はジャガイモの皮を剥きながら尋ねた。
「じゃあ、ユマ様は事務員さんになりたいのかしら」
「それが違うんだよ! 玉の輿だよ」
「どういうこと?」
「……社長さんとお近づきになりたいだってさ」
「えええ?」
「静かに!」
ウメの声の方が大きいので、一瞬二人で背後を見てしまったがウメは鉄瓶のお湯が沸いたので火を止めた。
「とにかく、そういうことのようだよ。まあ、その前に家庭教師だけどね」
「あの先生ですか」
「そう! お嬢様は、夢中だものね……」
やがてお茶の支度ができたのでウメは家庭教師にお茶を持って行った。遠子はその背を見ず、ジャガイモの皮を剥き続けた。
……私には関係ないもの、お仕事をしなくちゃ。
手塚家の事情は遠子にはどうでも良いことである。遠子は与えられた仕事をこなしていた。
しかし、この日の勉強時間は長かった。サイは家庭教師に気を使いサンドイッチを出すように指示をした。台所にいた遠子とウメで作り上げた。
「遠子、悪いけれど、お前が持っていておくれ。私は少し手が痛くて」
「いいですよ。私が行きます」
遠子はお盆を持ち、ユマが勉強している部屋に入った。若い男性教師は熱心にユマに教えていた。遠子は邪魔しないように静かに声をかけた。
「こちらに置きます」
「ありがとうございます。そうだ、ユマさん。少し空気を入れ替えませんか」
「はい。先生」
この様子を見た遠子は、窓辺にいた。
「お嬢様、私が開け」
「私がやるわ! 退きなさい!」
遠子が窓を開けようとしたが、ユマは家庭教師にいいところを見せようと押し除けるように窓に立ちガバッと大きく開いた。するとこの時、部屋のドアも開いた。
「先生、娘の様子はどうですか、あ」
サイがドアを開いたせいで、部屋にブワッと風が抜けた。ユマが勉強していた資料が風に飛んだ。
「うわああ! お母様。早く閉めて」
「ごめんなさい」
「おっと、勉強の資料が」
……大変!
遠子は窓から庭に飛んでしまった資料を拾いに行った。遠子が部屋を出て拾いに行っている間、美形の教師はサイとユマに謝る。
「すみません、私が余計な事を言い出したせいで」
「先生のせいではありませんよ。気になさならずに」
「そうよ、先生。それよりも食べましょうよ!」
申し訳なさそうな家庭教師にサイは笑みを称え、ユマは親しげに腕を組み、一緒にソファに座ったが、遠子が部屋に戻ってきた。遠子は庭に落ちた用紙を布巾で拭き、綺麗にして持ってきた。
「失礼します。こちらで全部かと思うのですが、論語と、あと、こちらは 社会の問題です」
「どれどれ、確認します」
小さいサンドイッチを一つだけ食べ終えた家庭教師はユマから逃げるように立ち上がった。サイは風で乱れたカーテンを直し、ユマは一人で食べていた。家庭教師は机に残っていた用紙を広げたので、遠子は拾ってきた用紙を確認しながら差し出した。
「先生。この論語は、三ページ目ですね」
「はい、そうです」
「……あと、このインドの問題は、このページですね」
「そうだね……君、よくこれがインドだとわかったね」
家庭教師は思わず遠子の真剣な横顔を見つめたが、用紙が揃っているか気になって仕方ない遠子は視線に気付かず用紙だけを見ている。
「はい……これは『カルカッタ』と書いてあるので、ここのページですね。後のこれは……ああ、そうか、これはインドの歴史じゃなくて、シルクロードの勉強だったんですね」
「そうだよ、君は詳しいね」
家庭教師は関心していたが、遠子は真面目に風で飛んだ用紙を確認した。全て揃っていたので安心した遠子は、一堂に頭を下げて退室した。
その数日後、遠子は主人の手塚吾郎の部屋に呼ばれた。
「遠子、お前、この問題わかるか」
「これは……お嬢様の勉強の」
「いいから答えてみろ」
「はい……これは、『方丈記』ですね」
「どういう内容だ」
「それは、ええと……」
なぜこんな事を聞くのか不明であるが、吾郎は真剣である。遠子は文章を読み、知っていることを語った。吾郎はさらに用紙を差し出した。
「ではこれはどうだ」
……あの時のインドの問題だわ。
「この答えは『綿花』だと思います。カルカッタはインドの首都で、綿花の産地なので」
「なぜそんな事を知っている」
「え? これはただ学校で習っただけです」
遠子は尋常小学校だけは通わせてもらっていた。勉強が好きだった遠子は、習ったことをそのまま吾郎に伝えた。吾郎は気持ちを鎮めるようにキセルに火を点けた。
「そうか」
……秋元家の血筋か……
使用人に関することは妻に任せている吾郎は、数日前に遠子の学力を知った。サイは『使用人の遠子さえ知っている問題をユマは全く解けない』と嘆いていたが、その問題を読んだ吾郎は、驚きを覚えていた。
……ユマが不出来なのはわかっていたが、まさか遠子がこんなに賢いとは。
吾郎は意を決し戸惑う遠子にさらに用紙を渡した。
「遠子、お前、この試験を受けてこい」
「試験ですか」
吾郎が差し出した紙を遠子は読んだ。
「それは、松本製粉の事務員の募集の知らせだ」
「……これを……私が受験するのですか?」
「いや、試験を受けるのはうちのユマだ」
手塚はそう言ってキセルの煙を吐いた。ユマはこの商店の娘である。遠子は訳が分からず首を傾げる。
「いいか……その一時試験は、お前が解いたような学科問題なのだ」
吾郎の話を遠子はゆっくり理解した。
……もしかして、代理で受験しろっていうこと?
恐ろしい企みを知った遠子は怖くなった。
「旦那様、それは私がユマお嬢様として試験を受けてくる、ということですか」
「そうだ」
「な、なぜそんなことを」
「……お前もわかったと思うが、その試験は難しい」
吾郎の『難しい』という意味は、試験の内容もさることながら、ユマでは合格するのが難しいという意味もあった。
「それに、それは一次試験だ。二次試験はユマ本人に面接を受けさせる」
「無理です。そんなことは」
「写真もない。お前は黙ってユマの名前で試験を受けてくれば良い」
「ですが、自信ありません、私には出来ません」
頭を下げて断る遠子に、吾郎は目を伏せた。
「お許しください! 私は無理です」
「これは命令だ! お前の意思は関係ない」
「は、はい……」
……どうしよう……大変なことになってしまったわ。
まだ信じられない遠子が部屋を出ると、暗い廊下の奥ではユマがいた。ユマは遠子を見るなり腕を掴み自室に連れ込み、畳に押し倒した。
「こいつ! 頭が良いからって、いい気になって!」
「お嬢様、やめてください」
「お前のせいで! 私は、私は」
ユマは怒りの拳で遠子の体を殴る。遠子は腕で顔を庇った。
「どうせお前も私をバカだと思っているんでしょう! 威張り腐って偉そうに……こいつ! こいつ」
ユマの怒りは長く続いた。殴られていた遠子もだんだん疲れてきた。
「お前のせいで先生も来なくなってしまったじゃないの! どうしてくれるのよ!」
……何を言ってるの? よくわからない。
遠子は気絶寸前でユマの怒り顔を見ていた。ユマのお気に入りの美形の家庭教師を父は首にしてしまった。
……先生も遠子を誉めていたし! このやろう!
ユマは彼に会えなくなった怒りの刀で突き刺すように遠子を何度も何度も殴っていた。
「お嬢様?! お止めください。遠子! 遠子」
「ウメさん……」
ウメの助けが入り、ユマの折檻が終わった。吾郎も女将も駆け付け、ボロボロになった遠子を見て、休みを与えた。殴られた遠子はこの翌日も寝込むほどの痛みだった。
「遠子、明日も無理しなくていいってさ」
「ウメさん……ありがとう」
殴られて青あざになって遠子の腕を見たウメは眉を顰めた。
「黙って聞きなさいよ。ユマ様はね」
寝床に粥を持ってきてくれたウメは、状況を語った。吾郎はユマに試験を受けさせるために勉強をさせていたが、あまりにも不出来なので諦めたようだと語る。
「私は知らなかったけれど、遠子は庭に飛んだ勉強の紙を拾って、その答えがわかったそうだね」
「答えたつもりじゃないけれど、先生と数が合うか確認するためにそうしたわ」
「……その話を奥様が旦那様にしたんだよ」
ウメは優しく寝ていた遠子を起こした。
「旦那様はね。お前が頭の良い事を知って、それで代わりに試験を受けさせることにしたんだよ」
「でも、お嬢様があんなに怒るなんてどうしてかしら」
ユマは怠け者である。遠子が代わりに試験をすることは彼女の性格を思えば、儲け話のはずだった。寝床で考えても不思議だった遠子にウメは教えた。
「それは例の家庭教師のせいだよ」
美形だった家庭教師はユマのお気に入りだったと密かにウメは目配せをした。
「お嬢様はもう勉強しても無駄だと旦那様に言われていたよ。だから家庭教師も来ないってことじゃないか」
「そういうことか」
……それであんなに怒っていたのね。
ユマの折檻は今に始まった事ではない。どれもが八つ当たりであるが、今回に至っては激しく長い折檻だった。
……あの先生に会えなくなるので、それで怒っていたのね。
家庭教師は遠子にも挨拶してくれる紳士だった。やっと理由がわかった遠子は、粥を食べて横になり痛む体を休めた。
その後、遠子は試験を控えているせいか、サイもユマも何も言ってこなかった。
そして試験当日。遠子はウメに手伝ってもらいながら、ユマの着物を着た。
「こんな立派なお着物……私が着てもいいのかな」
「古いからお嬢様は着ないって奥様が言っていたわよ」
普段は粗末な掠りの着物で、長い髪をひと結びの遠子は、高価な着物に目を見張った。
「素敵なのに」
「私もそう思うよ。はい、こっちを見て……横髪でもう少し顔を隠そうか」
こうして袴を履いた遠子は、鏡の前で身なりを確認をした。桃色の着物は色の白い小顔の遠子に似合っていた。髪はウメによって整えられ、綺麗な三つ編みになっている。
綺麗になった遠子であるが浮かない顔である。ウメは鏡越しで励ます。
「遠子、そんな顔をしてもしょうがないよ。とにかくお嬢様として試験に行っておいで」
「でも、私」
「……遠子、昨夜言ったでしょう」
罪悪感に苛まれている遠子にウメは優しく諭していた。それは問題を適当に解いて、不合格になって来い、というものである。
「そうね。そうだったわね」
「難問だって噂だしね。それに その時は私も一緒に叱られてあげるからさ」
「うん」
元気が出た遠子は、サイに挨拶してから出かけようと部屋を訪ねた。そこには吾郎もユマもいた。三人はなぜか遠子を見てびっくり顔である。
「お、お母様、あの着物って、あの着物よね?」
「そうだよ……お前が古いからって、嫌がっていたから遠子に着せたんだけど」
品よく立つ遠子に吾郎も息を呑んだ。彼は思わず当時の秋元家の繁栄を思い出した。
「……これから行くのだな、しっかりやってこい」
「はい」
「再三言っているが、名前を間違うなよ」
「はい」
……『手塚ユマ』って書くのよね。大丈夫!
吾郎は遠子に念を押したが、さらに玄関で見送るという。試験に行くユマを見送る演出だと悟った遠子は、静々と従う。吾郎の作戦にため息をつくサイも後に続こうと立ち上がったが、ユマも一緒に着いてきた。
「なぜお前も来るのだ」
「そうよ、お前は姿を見せてはいけないでしょう」
遠子がユマのふりをする今日一日。ユマは身を隠して過ごさねばならない状況である。それなのに見送りを一緒にしようするユマを見た吾郎とサイは不思議顔であるが、ユマはもっと不思議顔である。
「え? どうしてなの? 私は今日、お買い物に行こうとしていたのに」
作戦をまるでわかっていないユマを見た吾郎は苛立つように頭を抱えた。
「ああ……お前はなんて愚かなんだ! お前のためにこんなことをしているのか、まるでわかっていないとは」
「あなた、そんなに大きな声を出さないでください」
「うるさい! お前が甘やかすから、こんなバカな娘になってしまったんだ」
「ひどいわ!? ううう」
……どうしよう、時間がないのに。
遠子が親子喧嘩に困惑していた時、足音がした。
「旦那様、自分が送ります」
「頼む」
ここで老齢の番頭がやってきた。家族の諍いを背にした番頭は遠子を令嬢として恭しく扱い、玄関外まで送ってくれた。
「ふふ、こうしてみるとお前の方がお嬢様らしいよ」
「そんなことありませんよ」
いつも優しい番頭はいたずら顔で咳払いをし、声を張った。
「では、おほん! お嬢様、行ってらっしゃいませ!!」
「ありがとう……」
遠子は恥ずかしそうに手塚家の人力車に乗った。車係の末吉は替え玉受験を知っており、発車してから笑い出した。
「ハッハハ! それにしてもハハハ」
「末吉さん。ちゃんと前を向いて」
「大丈夫さ、それにしても傑作だな」
仲良しの末吉はお嬢様にしか見えない遠子を連れて、試験会場へと向かっていた。
……緊張する……でも、不合格でいいのよね。
晴れの空。試験を前にしていた遠子の胸はドキドキしていた。春風は遠子を励ますように爽やかに吹いていた。
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