二 若き社長の悩み

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二 若き社長の悩み

「また、問題があったのか」 「はい」 「今度は何だ」 「……その……担当者の話によるとですね」  松本製粉会社、社長室。松本清太郎は腕を組み、額に冷や汗のかいている部下の話を聞いた。 「先方はうちの担当者に注文の紙を渡したというのですが、本人に聞いたところ受け取っていないと言って」 「それで?」  呆れ顔の清太郎に部下は、申し訳なさそうに告げる。 「は、はい。それですぐに確認をして、それで契約ができたのですが」  清太郎が睨む視線に、部下は額の汗を拭う。 「その、ですね。最初の時と、値段が変わってしまいました」 「……なるほど」  清太郎は静かに立ち上がった。 「つまり。最初に契約していれば安く買えたものが、こちらの手違いのせいで高値での契約になった、と。そういうことか」 「は、はい」 「また損か」  ……なぜ、こうなるのだ。  清太郎は創業者の一族である。軍人をしていが父の命令で社長に就任したばかりである。松本製粉は清太郎の祖父が経営をしていたが亡くなった。父はすでに違う会社を経営していているため清太郎に預けた流れになるが、当の本人は困っていた。  松本製粉は祖父の独裁経営だったため、従業員が育っていなかったため祖父亡き後、社員に任せていた時期に経営が悪化していた。さらに他にも競争相手の会社が現れ、社長になった清太郎は非常に困惑していた。 「なぜ、こうも失敗があるのだ? この前もあったではないか」 「は、はい」  清太郎は部屋を歩き出した。 「……以前もあったな。あの時は『注文の紙が風に飛んでしまったので、わからなくなった』。他には『雨で濡れてしまって、読めなくなった』だったな」 「よく覚えておいでで」 「当たり前だろう! いい加減にしろ!」  清太郎の怒りに部下が震えた。こうした事務員達の不甲斐ない仕事の態度を許せない清太郎は、部下に解決策を言いつけた。それは指示された内容を黒板に書いて、読ませるというものであった。  ……これなら失くすことなないし、大丈夫だろう。  黒板を事務所の壁に設置した清太郎は、これで改善されると思った。だが、数日後、また失敗が発覚した。 「また取引先との約束をすっぽかしたのか? なぜだ? 予定は全て事務所の黒板に書いて、それを読めと言っただろう」 「すみません! 読むのを忘れた者や、それにうっかり触って消してしまったと」 「…………」  謝るばかりの専務に清太郎はもういいと、呆れて首を振った。そんな彼は秘書の武田に愚痴をこぼした。武田は清太郎と同じ軍人であったが、心臓が弱いことがわかり激しい運動ができなないため退任した男である。誠太郎とは親しく有能であったので秘書に雇っていた。 「なあ、武田。俺は社員に多くを求めすぎているのだろうか……」  清太郎は疲れた顔で椅子に背もたれ、回転椅子を揺らした。 「注文の紙をちゃんと握りしめろ、とか、黒板に書いたものは忘れずに読めとか、俺が毎日言わないといけないのだろうか」 「いえ。それはないと思います」 「はあ……では、どうすれば良いのだろうか」 「……そうですね。自分もだんだんわかってきたのですが」  武田は、清太郎にお茶を出した。 「社員は皆さん、先代の社長の代からいる社員ですが、今まではこのやり方で良かったのでしょうね」  松本製粉はアメリカから小麦を輸入し、工場で製粉して販売している会社である。祖父の代は競争相手もおらず、小麦の取引価格も祖父が交渉して決めていたので社員達は同じ仕事の繰り返しで十分だったようだと武田は語った。 「ですが、今は競争相手もできたし、価格の交渉もこちらでしないといけません。でも社員さん達はそれをしたことがないのですよ」 「祖父が独断でやっていたことが、全て裏目に出ている、ということだな」 「そうですね」 「こうなったら、社員教育しかないか……」  しかし、毎度毎度の失敗ばかりの報告を聞いていた清太郎は、ある日、限界になった。 「もういい! 武田、新しく従業員を雇おう!」 「そうですね。では、早速募集を」 「待て!」  清太郎は武田に告げた。 「武田、俺は今度の社員は試験をして決めたい! 無能な社員はもうごめんなんだ」  勢いのある清太郎に武田も賛成した。そして二人で試験の問題を考えた。 「計算式や漢字の試験ですね。まあ、常識問題ですけれど」 「今、うちにいる社員にやらせてみたいものだな……だがこれではまだ足りない」 「学科問題を難しくしますか?」 「……まだ時間があるだろう。それは俺が考える、それよりも、この募集要項はこれでいいか」  武田の立案で学習問題を難しくした。清太郎もこれで問題はないと思った。  ……しかしまだ手ぬるい、試験内容を工夫せねば。また使えない社員ばかりになってしまう……  優秀な人材が欲しい清太郎は武田と一緒に試験の内容を煮詰めていた。こうして松本製粉会社が募集したところ、試験の申し込みが集まってきた。 「おお、すごい量だな」 「え、ええ」 「ん? 浮かない顔だな……どれどれ……女か、これも女」  男性の申し込みもあるが、女の申し込みが多い。予想していなかった清太郎は理由を武田に聞いた。武田は参った様子で頭をかいた。 「実は自分も気になって、食堂の女将さんに理由を聞いたんですが、どうやら社長とお近づきになりたいという娘が多いらしく」 「はあ?」 「清太郎さんは独身じゃないですか。それにまあ、資産家ですので」 「……それは、俺の嫁になりたくて、それで会社に入ろうとしている、ということか?」 「たぶん」 「ありえない……」  優秀な人材を純粋に求めている清太郎は、衝撃で机に突っ伏した。そんな清太郎を武田は励ます。 「ですが、全員がそうとは限りません! 純粋にうちで働きたい娘さんだっているはずです」 「そうか?」 「はい。試験は今週です! 期待しましょう」  こうして清太郎の悲願の試験となった。試験会場は松本製粉会社の会議室である。次々とやってくる受験生達は、受付をしている。 「どうだ? 武田」 「ええと……まあ、予想通りというか、ここから見てください」  武田は密かにカーテンの隙間から清太郎に外の様子を見せた。 「ん? なんだか娘たちは華やかだな」 「そう……ですね。まあ、やはりその、社長目当てって感じですね」 「くだらん! 顔も見たくない!」  華やかな着物に化粧。そして髪型も美しく整えている娘が多くいた。清太郎は怒りでカーテンを閉めた。武田はまあまあと声をかけ、清太郎を座らせた。 「でも大丈夫ですよ。問題は工夫したじゃありませんか」 「そうだったな……そうだ。重要なのは試験の結果だ」 「ええ、あの問題は簡単には解けません。それよりも、そろそろ時間になりますね」 「ああ」    試験の日。清太郎は密かに社内で仕事をしながら待つことにした。こうして試験は始まった。 ◇◇◇ 「受付はこちらです! あ、お名前をどうぞ」 「手塚ユマです」  ……うわあ。緊張する。  思わず声が上擦ってしまった遠子は、ユマの名前で受付を済ませて試験会場に進んだ。遠子は他の煌びやかな娘達に圧倒されていた。  ……そうか。うちのユマさんだけじゃないのね。  受験する娘たちの華やかな装いを見た遠子は、彼女達も玉の輿を狙い入社を希望しているのだと悟った。そんな遠子が指定されて席に着くと、前の席は白いブラウスとスカート姿の地味な姿の娘であり、彼女は場違いだと思ったのか、困惑していた。  ……戸惑っているわ……でもこの人の格好が正しいのに。  緊張している彼女が遠子は気の毒に思った。時間前であったので遠子は声をかけた。 「こんにちは。緊張しますね」 「え? え、ええ……」  緊張している彼女を遠子は励ました。 「今日は頑張りましょうね。あ、時間だわ」  会場には背広姿の試験官が入ってきた。見るからに厳しそうな男は日程を説明し、試験用紙を配布した。そして試験が始まった。  ……解けそうな問題だけれど、これを解いたら。  他の受験生はカリカリと鉛筆を動かしている。だが不合格になる予定の遠子は、ここは白紙で出すことにした。  ……う? 試験官がこっちを見ている。  他の受験生が必死に考えているのに、遠子は何も書かないわけにもいかない雰囲気だった。そこで遠子は論文を書くことにした。  ……ええと、題は何かしら。『尊敬している人について述べよ』か……  遠子は尊敬している人を思い浮かべた。  ……お父様、お母様……恩師の先生も懐かしわ……あ! そうだわ! あの先生の話がいいな。  遠子は最近、感動させられた人物のことを書くことにした。その話は実にくだらないことなので原稿用紙を埋めても不合格になると遠子は確信を得ていた。  ……焼き芋屋さんのおじさんは、さつまいもは収穫してからよりも、時間をおいたほうが甘くなると教えてくれました。このため私はさつまいもを屋敷の倉庫に保管し、一年寝かせました。しかし、いつの間にか芽が出てしまって食べられなくなりました。その話をまた冬に現れた焼き芋おじさんにしたところ、おじさんは藁を被せ、日陰に…… 「う、うう」 「ん?」  声に気が付いた遠子は顔を上げると、前の席の地味な受験生は気分を悪そうにしていた。吐き気がある様子であるが、試験官は気がついていない。彼女は我慢している。 「大丈夫ですか?」 「う……うう」  遠子は慌てて袂に入れていたハンカチを出し、彼女の口に当てさせた。そして手を挙げて試験官に訴えた。 「すみません! 付き添いをします」 「あ、ああ」 「行きましょう。大丈夫ですか」  遠子は彼女を連れ出し、手洗いに行かせた。彼女の吐き気は終わったようであるが、顔色が悪い。 「大丈夫ですか」 「……私は大丈夫です。それよりも試験に戻れるかしら」 「お願いしてみましょう」  ……この人は真剣に受験に来ているのよ。  遠子は不合格で構わないが、彼女は必死の様子である。会議室に戻ってきた二人は、廊下にいた試験官に再入室を求めた。 「ダメだ」 「え? なぜですか」 「規則でそうなっている体。お前達は答え合わせをした可能性がある」 「そ、そんな……」  ……戻れない? 話をしたから?  頭の中が真っ白になった遠子はゆっくりと彼女を振り返る。彼女は申し訳なさそうにしている。 「ごめんなさい、あなたも戻れなくなってしまったわね」  謝る彼女に遠子は自分のしたことを悟った。  ……そうか、私が付き添いをしなければ、この人は試験に戻れたのだわ。  遠子は不合格で良いが、彼女はそうは行かない。遠子は咄嗟に頭を下げた。 「こちらこそ、ごめんなさい! 私が付き添いをしなければ、あなたは試験に戻れたのね。私、余計なことをしてしまったわ」  ……ああ、どうしよう。取り返しのつかないことをしてしまったわ。  泣きそうな遠子を見た彼女は、廊下の隅に遠子を連れてきた。彼女はそんなことはないと首を横に振った。 「あなたは私を助けてくれたのですもの、どうか、謝らないでください。それよりもあなたもダメになってしまって」 「私なんかどうでもいいんです! そうだわ、なんとかしてもう一度、頼んできます」 「あ」  ……この人だけでも助けないと!  遠子は試験官に彼女だけでも試験が受けられるように頼み込んだ。 「ダメなものはダメだ」 「でも、論文は真似できないじゃないですか? あの人に論文だけでも書くことをお許しください」 「そ、それは」  ……確かに、そうかもしれない。  廊下で試験官を担当していた橋本は松本製粉の事務員である。橋本は判断に迷い、事務所で待機していた上司に今の話を報告した。 「何? そんな話は無視しろ!」 「ですが、論文だけでも」 「うるさい! そんな文句を言ってくる娘は失格にしろ! いいな」 「は、はい」  高圧的な態度の上司に逆らえない橋本は、廊下で待つ遠子に伝えた。 「手塚さんですね。君の主張は認められません。それに君は失格だそうです」  どこか申し訳なさそうな橋本に遠子は、びっくりしていた。 「し、失格? 私はそれでも構いません! せめてあの人だけでも」 「もういいのよ」  彼女は遠子の手を優しく握った。 「お世話になりました。さあ、こっちに来て」  彼女は試験官にやんわりと挨拶をして遠子を廊下の隅に連れてきた。 「でも」 「いいから」  この時、試験が終わったベルが鳴った。遠子と彼女は私物を持って松本製粉を出てきた。 「本当にごめんなさい。私は正田チヨと言います。あの、あなたは」 「私は、その……」 「お嬢様。チヨ様! まあ、お顔の色が」  チヨを迎えに来た乳母は、チヨを見て心配した。そんな二人は遠子に改めて謝罪をしたいと必死に申し出てきた。 「せめてお名前を」  ……どうしよう。今日の私はユマ様になっているし。  困惑している遠子を見たチヨは老婆やに声をかけた 「老婆や、ひとまず車をお願い」 「わかりました」  彼女の指示で老婆やは慌てて人力車をここまで呼ぶと言い、走り去った。するとチヨは遠子に頭を下げた。ヒソヒソと話し出した。 「ごめんなさい! 実は私、この試験、不合格でいいのよ」 「え」 「父に言われて無理して受験していたの。嫌で嫌でたまらなくて、それで気分が悪くってしまって」 「そうだったんですか、でも……私もごめんなさい!」  遠子も謝った。そして訳があり試験は不合格で構わない事と、本名は秋元遠子だと語った。話を聞いたチヨは驚いたが、老婆やが来るまでの間、二人は事情が同じだった事を笑い、後日、会う約束をした。 「まあふふふ。では、遠子さん、会う日を楽しみにしています」 「はい! 待ち合わせ場所で」  こうして遠子はチヨは笑顔で手を振って別れた。その様子を清太郎は会社の窓から苦々しい顔で見ていた。 「社長、試験は無事に終わりました」 「そうか」  ……だが、あんな女ばかりじゃ、ろくな人材は集まらないだろうな。  清太郎は受験に来た娘達にがっかりしていた。男女問わず有能な人材が欲しいと思い募集したが、彼の思いとは違っていた。  そして、後日、清太郎は試験の結果を聞いた。 「学科は試験は難しかったようです。そして、この『尊敬している人』という論文です」 「ああ、どうだった」 「はい、予想、通りでしたね」  武田は資料を読み上げた。 「両親や恩師のことを書いたのがほとんどでした」 「そんなことだろうと思った。まあ、両親も恩師も尊敬しているのは、俺にしては当然だからな」  清太郎はそれら以外の人物を尊敬している、という論文を書く人物を求めていた。だがそれは少数だったと武田は報告した。 「ええと……受験生三十名の内、偉人、小説家、祖父母などを題にしたのは七名ですね、その論文はここにおきます」 「ああ」 「そして、この七名は、一次試験は合格で、二次試験の面接でいいですね」  武田は残りの二十二名のうち、論文は一般的であったが、学科が高得点だったものを五名ほど合格させて面接してはどうかと言った。 「それでいいが……お前、人数がおかしくないか」 「あ? そうでしたね」  資料を読んだ武田は、一名が失格になっていると語った。 「失格? 聞いていないぞ。それは不正をしたのか」 「うちの社員が試験官ですので、聞いてみましょう」  武田は当日の試験官をした社員を呼び、理由を聞いた。試験官を務めた橋本は試験中、気分が悪くなった娘がいたと語った 「一人は付き添いを申し出て、二人で試験を中断し、手洗いに行ったのです。そして二人は再入室を求めましたが、答え合わせをしたかもしれないため、自分は再入室を認めませんでした」 「……そうか、確かそんな規則をつくったな」  今回の試験は社員に試験官をさせた清太郎は、試験時の規則を作っていた。不慣れな社員たちが咄嗟の時の判断に迷わないように、途中退室した者の再入室は原則として認めないとしていた。 「確かに認めない、としたが、失格とはしなかったぞ? それがなぜ失格なのだ」    眉を顰める清太郎に、真面目な橋本は額の汗を拭う。 「は、はい! 娘がどうにかならないかと諦めないので、部長に確認したとこと、命令違反で失格にしろ、と」  ……確かに、迷惑行為や不正などで命令を聞かない者は失格と言ったが、これは違うだろう……  現場を任せた部長の誤った判断を知った清田郎は頭を抱えた。話を聞いていた武田も橋本に尋ねた。 「それは、気分が悪くなった娘さんの方ですか?」 「いいえ……付き添いをした娘です。その娘が、気分が悪い娘に試験を受けさせて欲しいと言ってきました」  橋本は苦しそうに打ち明けた。清太郎はため息で肩を落とす。 「……なんていうことだ。介抱した娘を失格だなんて」 「やりすぎでしたね」  清太郎と武田の顔を見た橋本もズーンと落ち込んでいた。 「自分もそう思いましたが、部長の言う通り、当日は命令違反は、失格という規則でしたので」  ……くそ、頭の硬い部長に任せたのが裏目に出たな。  さらに目の前の橋本も試験時の対応を後悔している様子で落ち込んでいた。 清太郎は彼のせいではないと顔を見つめた。 「ご苦労だった。橋本と言ったな、今回の判断は君のせいではないから気にするな。もういい。下がってくれ」 「はい、失礼しました」  橋本は退室したが、扉が閉まった音で清太郎は机に崩れた。 「……はあ、失格はやり過ぎだろう」 「ですね、今、どんな娘さんか見てみます」  落ち込む清太郎を見た武田は、急いでその失格娘と、気分を悪くした娘を資料から探し出した。 「ええと……気分を悪くしたのは、正田チヨさんですね。正田醤油の娘さんです。そして、後ろの席だから、付き添いをしたのは……手塚ユマさん、ですね」 「二人の成績はどうなんだ?」 「お待ちください……正田さんは、学科問題を少しだけ解いていますね……そして手塚さんは、白紙、だ」 「白紙?……それはどういうことだ」 「待ってください。ええと」  武田が論文を確認すると、正田は白紙であるが、手塚は書いてあるという。 「そうか! 手塚さんは論文から書いたのですね、でも書きかけだ。これは付き添いをしたせいで、中断したのですよ」 「ちなみに、題は何なのだ」 「……『焼き芋屋さん』とあります」 「はあ?」 「……ふ、ふふふ……これは面白い」    武田は論文を読んでいる。清太郎はその様子を見た。 「おい。見せろ、なあ」 「待ってください! ふふ、なるほど、真面目に美味しい焼き芋を作ろうとしたんだな」 「貸せ! なんだ、これは……ふざけているのなら……ほう、なるほど……」  清太郎は、焼き芋屋さんを尊敬している、という内容の論文を読んだ。字は丁寧であり本当に焼き芋が好きなのがひしひしと伝わってくる内容である。 「なんだ、これで終わりか」 「書きかけですからね。それに社長、残念ながら手塚さんは失格ですし」 「……そうだな。規則は規則だからな」    こうして清太郎は、武田の提案通りに一次試験の合格者を決めたが、その翌日もどうしても気になっていた。 「またその論文を読んでいたんですか?」 「いいじゃないか」  社長室で仕事の休みの間、清太郎はまた机から論文を出していた。 「この続きが気になってどうしようもないのだ」 「自分もです」  清太郎は机に頬杖をつく。 「なあ、武田。この気分を悪くした娘と、失格になった娘も二次試験に呼んでくれないか」 「構いませんが、理由はどうされますか」 「そうだな……」  清太郎は試験が中断してしまった二人に、試験の機会を与えたいという理由を告げた。この知らせは二人に届けられた。  ◇◇◇ 「遠子、旦那様がお呼びだよ」 「は、はい」  ……う、とうとう来たわ。  失格になったことを主人に言えなかった遠子は、叱られることを覚悟に部屋に入った。その部屋には主人もサイもユマもいた。 「遠子。よくやった」 「え」  驚く遠子にサイとユマは興奮気味である。サイは嬉しそうに語る。 「安心したけれど、今度は二次試験があるのでしょう」 「大丈夫よお母さん。今度は私が受けるんだから」 「ハハハ、余裕だな」  サイとユマの話を吾郎は笑っている。遠子は信じられなかった。  ……どうして? 失格だったはずなのに。  不思議だった遠子は、翌日の待ち合わせの日、チヨに会い家に招待された。  地味だったチヨは別人のように綺麗な着物のお嬢様姿である。チヨの家は醤油屋を経営しており、手塚商店と同じくらい立派であった。チヨは母屋の自分の部屋に遠子を連れてきた。 「どうぞ、ゆっくりしてね。あ。お兄様」 「こちらが遠子さんか。どうも妹がお世話になりました」 「いいえ。私の方こそ」  チヨの兄は新造と言い、温和な雰囲気で遠子にお菓子を勧めながら語った。 「試験の時は助けてくれてありがとう。実はね、チヨは試験に合格したくなかったんだ。でも父の手前、僕も反対できなくてね。それで地味な格好で行って、不合格になればいいなって、思っていたんだ」 「そうだったんですか」  新造の隣に座るチヨは申し訳なさそうに語る。 「あの時、私、色々考えてしまって前の日に眠れなくて……それで試験の時、気分が悪くなって遠子さんが付き添ってくれて。あの時はまさか遠子さんまで試験が受けられないなんて。私も倒れそうになったわ」 「……チヨさん、あの日、私も困っていたんです」  ここで遠子も真実を打ち明けた。手塚ユマの代わりに受験を強いられたが、合格するわけにはいかずに学科試験は白紙で出したと話すと、新造もチヨも驚いていたが、最後は笑った。 「あ! でも合格になりましたよね? どうしてでしょうか」 「ああ。あれね」  遠子は二次試験の知らせが来たことをチヨに告げた。チヨも受け取ったという。 「でも、私は兄と一緒に正直に就職したくないって父に打ち明けたの。父もわかってくれて、今回は辞退をしたのよ」 「そうだったんですか」    しかし、遠子の家はユマが受験すると遠子は告げた。思い悩む遠子を見た新造はお茶をすっと飲む。 「でも、それはそれで良いのではないかな。遠子さんは合格する内容じゃなかったはずだけれど、向こうは機会を与えるつもりなんだろう。二次は面接だし、本人の実力で受けて貰えばいいよ」 「そう、ですか」  新造の励ましで遠子は俯いてた顔を上げた。 「そうよ! 気にしないことよ。ねえ、ところで、遠子さんって、秋元さんでしょう? もしかして元藩主の秋元様の家系なの」 「はい、実は……」  遠子は秋元家が事業に失敗し、自分は奉公をしていると語った。チヨと新造は気の毒そうに話を聞いてくれた。 「そうかい。実は僕は君のお兄さんの後輩なんだ」 「遠子さん。あなたは優しく介抱してくれて、私、感激したの」  二人はこれからも遠子と仲良くしたいと笑顔で言ってくれた。遠子は嬉しかった。その後、新造は退室したが、遠子はチヨと楽しくおしゃべりをした。  こうして二人は友達になった。同年代の友達がいなかった遠子にとって、チヨは大切な人になった。  そして、二次試験の日になった。遠子はユマの付き添いを言われてしまった。 「ほら! 行くわよ! 私は場所も知らないんだから」 「はい……」  気が進まないが、行かねばならない。そんな遠子は試験日の時とは異なり、地味な着物姿で風呂敷包みを前に持ち、顔を隠そうと思っていた。  ……私を覚えているのは、あの試験官くらいですもの。  あの試験官にさえ会わなければ、なんとかなると遠子は思っていた。 「で? 論文について聞かれたらなんて言えばいいんだっけ?」 「ええと……『緊張していて、覚えていません』でいいと思います」  ……さすがに焼き芋の屋さんの話は出ないと思うし。  二次試験に合格した時、遠子は主人に論文があったこと、その内容を伝えようとしたが、主人は遠子の話もきかずユマには『緊張のため当日のことは覚えていない』と言わせると言い出した。ユマもこの言い訳でいいというので、遠子は何も話していない。  ……うう。でも怖い! あの試験官がいたらどうしよう。  ドキドキの遠子はユマと会場に着いた。遠子は付き添いとしてユマと一緒に受付をし、玄関で見送った。 「お嬢様、行ってらっしゃいませ」    ユマは返事もせず言ってしまった。お気に入りの着物のユマは気分が上がっているので遠子はほっとし、胸を撫で下ろした。  そして付き添い用の控え室があったので、そこで他の付き添いと一緒に待機することにした。静かな時間で待つだけの部屋で、遠子はいつの間にかうたた寝をしてしまった。 「いよいよ、次か」 「はい。手塚ユマさん」 「はあい!」  部屋に入ってきた手塚ユマは着飾っており、どこか化粧の匂いがしていた。  ……あれが焼き芋の論文を書いて娘か? まあ、人を見かけで判断してはいけないが。  部下たちと共に面接をしていた清太郎ががっかりしたが、他の受験生と同じ質問をした。 「君がするのは事務仕事になると思うが、計算などはどうかな」 「はい! 算盤ですよね。苦手ですが、お茶汲みは得意です」  ……お茶汲み? だめだ、この娘は。  しかし、焼き芋の話を聞きたい清太郎は論文を取り出した。 「最後に聞くが、この焼き芋の論文はどういう意図で書いたんだ」 「意図? ……あ、試験の時は緊張していて……何も覚えていません」  ……うわあ、素敵な人。  清太郎を前にしたユマは、社長という名札を見てドキドキが止まらない。清太郎の隣席の武田も、頬を染めているユマに質問した。 「恐れ入ります。君は試験の時、前の席の人を介抱しましたよね」  武田の言葉を聞いたが、ユマはまだ清太郎を見て夢現である。 「私……試験の時は緊張していたので、何も覚えていません!」 「武田、もういい」  以上で面接は終わりになった。ニコニコ顔で退室したユマに清太郎はがっかりしてこの日の全ての試験を終えた。そんな清太郎が面接をした部屋から出てきた時、橋本が話しかけてきた。 「社長、あの、娘はどうしましたか」 「ん。ああ、あの失格娘か」 「はい。自分は態度を反省して、今日、謝るつもりでしたが」  橋本は廊下に立ち、彼女を待っていたが、いなかったという。 「そんなはずはない。見逃したんだろう」 「いいえ。自分は廊下にいたし帰りは玄関でずっと待っていたんです」 「あの派手な女を見逃すなんて、有り得んだろう」  不思議な話であったが、すれ違ったのだろう、ということになった。  そんな清太郎は、翌日、会議を開き試験内容を元に合格者を決めていた。勘違いな娘の受験もあったが、真面目な男性社員もおり、男性を数名を合格させていた。 「社長、女子事務員はどうしますか? 優秀な成績の者もいましたが、論文が今ひとつでしたね」 「そうだな……」  ……くそ! それよりも焼き芋屋の続きが知りかったのに。  結局、手塚ユマは不合格とした。そして成績が優秀だった女子を二名合格させることになった。だが話し合いを終えた清太郎は、社長室に戻ってもまだ手塚ユマの論文を見ていた。  ……どうも違和感があるんだよな。  橋本は二次試験の時、娘を見かけなかったという。そこで清太郎は二次試験時の受付の署名を確認することにした。  ……確かに手塚ユマは来て、俺も面接したんだ、来ていないはずはないだろう……  橋本は玄関で待機し、面接が終わった女子をずっと待っていたという。清太郎は橋本が見逃したと思っていた。  ……ほら、来ている。名前が書いてあるじゃないか……ん?  清太郎はここであることに気が付き立ち上がった。 「違う」 「ど、どうされましたか?」 「た、武田、これを見ろ」  清太郎は、受付時の手塚ユマの筆記を武田に見せた。 「二次試験の時の受付の字はここれだ! そして論文はこんなに綺麗な字だぞ」 「待ってください……どれどれ……」  武田も首を傾げた。 「これは……違う人物の文字じゃないですか? 名前の筆記だって、明らかに違いますね」 「俺もそう思う。そうだ! きっとそうだ……わかったぞ」  笑みを浮かべた清太郎は書類を指で弾くと、立ち上がった。 「おそらく、一次の学科試験は、替え玉受験をしたんだ! だから、一次試験と二次の面接の娘は、別人なんだ」 「なるほど、それなら合点がいきますね」 「やってくれるな……」  だから橋本も一次試験の娘に会えなかったのだと、武田と清太郎の意見は一致した。 「よし……この替え玉女を探すぞ」 「え? そこまで焼き芋屋の話を知りたいのですか」 「それもあるが、この俺を騙すとは、面白い……」  清太郎は、ニヤリと笑う。 「この女を探し出せ! そうだ、橋本に頼もう。フフフ……この俺から逃れられると思うなよ……」  ……面白くなってきた……お前の顔を拝んでやる。  元軍人の清太郎はそう言って窓の外を見た。夏を前にした空は青空だった。 二話 完
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