肺が痛むほどの綺麗事

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 木崎は思い出していた。  無機質さと悲しみが混在し、音の反響さえ冷たく聞こえる取調室の中で、まだ義務教育を終えていない少年と交わした会話を。 「もう色んな人に聞かれたと思うけどね、もう一度話してもらえるかな」  木崎は灰色の机を挟んで少年の向かい側に座る。錆が浮き始めたパイプ椅子が、不快な音を立てて彼の体重を受け止めた。  少年は嫌気がさしたような目で木崎を一瞥すると、俯きながら答える。 「何を言えばいいんですか。もう何もかも話しましたし、そもそも僕は自分がしたことを認めています。さっさと死刑にでもすればいいじゃないですか」  投げやりな言葉を吐く少年。  木崎はボールペンで自分の額を掻きながら、どのように少年と会話をすべきか悩んでいた。  ぱっと見はどこにでもいる少し暗い少年。凶暴性や暴力性は見受けられない。一見して人間の中身がわかるのならば、それほど楽なことはない、と木崎は自分に言い聞かせる。  この少年は人を一人、殺しているのだ。それだけは間違いない。  木崎は少年の苛立ちを増幅させないように、柔らかい口調で言葉を返す。 「刑事に刑罰を決める権利はないよ。何度も同じ取り調べをして申し訳ないと思うけど、間違いがないようにしていると思って理解してくれないか。それにこんなことを俺が言うべきじゃないかもしれないけれど、まだ十三歳の君には少年法が適応される。死刑にはならないさ」 「死刑にはならないのか……」  少年は少し安堵した様子で息を漏らした。どうやら、少年は少年法など理解していないらしい。木崎の言葉を聞くまで、自分がどうなるのか、と心配していたのだろう。  まだ中学生になったばかりなのだから、当然と言えば当然である。  若干だが少年の空気が緩んだところで、木崎は話を続けた。 「それで君はどうして花岡くんをカッターナイフで刺したのか、聞かせてくれるかい?」 「……いじめられていたから」 「仕返しをした、ってことだね。いじめについて誰かに相談しなかったのかな」 「したさ!」  木崎の問いに対して、少年は声を荒げる。今までの苦しみを全て吐き出すかのような声だった。  少年を落ち着かせるために木崎は、一呼吸置いてから続ける。 「それでも解決しなかったんだね」 「先生は、遊んでるだけだろうってちゃんと聞いてくれなかった。親に話しても、一発殴り返せば終わるって言うだけ。それがどれくらい難しいのかも知らないくせに」  いじめに対して、部外者はひどく冷たい。いじめという問題が、それほど扱いにくいものだからだ。  また、冷たくしている自覚など、部外者にはないだろう。親身になって相談に乗っているかもしれない。なんとか支えようとしているかもしれない。  けれど、それは『つもり』でしかない。痛みを分かち合うことなど、できないのだから。  そもそもいじめか否かという境界線すら曖昧である。  もちろん、被害者がいじめだと認識していれば、それはいじめだ。  心も体も疲労し、恐怖が刻まれ、自分の自信を全て奪われる。  そんな被害者に対して、部外者は言う。立ち向かえ、と。  無責任で理不尽な言葉だ。  立ち向かえば解決する。本気でそう思い、真っ当な助言のつもりなのだろう。だが、立ち向かう勇気や自信、行動力すら奪うのがいじめなのだ。  そんな状況を正しく理解するのは、いじめをなくすことと同じくらい難しい。  木崎は苦しそうな表情を浮かべる少年に、同情の余地を感じながらも、私情を挟まないよう気をつけながら話を続ける。 「動機はわかった。じゃあ、いじめが耐えられなくなって、咄嗟に刺してしまった、ということかな。それとも相手を殺害する計画を事前に立てていた?」 「ずっと……ずっと殺したいと思っていたよ。教室で裸にされた時も、僕の大切な本を燃やされた時も、僕の上履きを捨てられた時も、腕にシャーペンの芯を刺された時も、トイレの水を飲まされた時もずっと! ようやく勇気が出たんだ、アイツを殺す勇気が!」 「……それは勇気じゃないよ。でも、咄嗟だった、と。咄嗟にカッターナイフを出して、被害者を刺した。それも十七回も」    手元にある捜査資料を見ながら木崎が言うと、少年は顔を上げて首を傾げる。 「被害者? アイツが、被害者? 僕はずっと刺されてたのに、僕はずっと死にそうだったのに、アイツが被害者?」 「あ、ああ、この事件ではって意味だよ。それ以外の意味はない」 「……でも、これでようやく解決したんだ。僕をいじめる奴はもう死んだし、僕は死刑にはならない。僕の勝ちだ」  どのような感情からなのか、少年は震えた声で笑う。それは木崎にとって耳心地のいい音ではない。本能的に耳を閉じたくなるような声だった。  彼の目の前にいる少年は、これまでずっと独りで耐えていた。そして溜まり溜まった苦しみが爆発し、大きな罪を犯したのである。  被害者が一転、加害者になった。  いじめがどれだけ辛いのか、経験者にしかわからない。経験者であっても、その度合いによって理解できない領域が存在する。ただ『辛い』『苦しい』という大まかな言葉でしか共有できない。  木崎に理解できるのも、その程度であった。 「罪を犯した時点で、負けだよ。でも、君の気持ちはわかる。同情すべき余地もある。だけど、暴力で解決すべきじゃなかったんじゃないかな」  一人の大人として、間違いを犯してしまった少年に言葉をかける。木崎はそんなつもりで言った。  すると少年は歯が削れるんじゃないか、と心配になるほど奥歯を噛み締めてから、言い返す。 「何がわかるんだ! 綺麗事しか言わないじゃないか。誰も助けてくれなかったくせに。どうしてアイツの暴力は許されるんだよ、あれも罪だ。アイツも捕まえろよ!」 「もちろん、いじめは許されないことだ。その暴力も、本来は裁かれるべきだよ。でも……それでも、キミは言葉で解決すべきだった。人間には言葉があるんだからね」 「言葉で何が解決するんだよ。言葉で解決できるならしてる……それに人が法律に従うのは罰があるからでしょ。罰を受けたくないから、罪を犯さないだけだ。それだって、暴力じゃないか」  追い詰められた少年は、自分の間違いを正当化するかのように木崎に反論した。  そんな少年の言葉を『そうだね』などと受け入れられるわけもなく、木崎も木崎で言い返す。 「人が法律を守るのは、そうすることで自分を守れるからだ。法律がなければ安心して生きていけないからね」 「だったら警察なんていらないじゃないか。警察は法律を守らせるためにいるだろ」 「警察がいるのは、法律を守らせるためじゃない。市民を守るためだよ」 「だって、警察は銃を持ってる。殺人犯が暴れたら、撃つでしょ。それは暴力じゃないのかよ。僕はずっと、殴られるのが怖かったからわかる。言葉じゃなく、暴力に従ってしまうんだ。大人が怖いんじゃない。大人の方が強くて、怖いから従うんだ」  その後、自分はどう答えたのだろうか、と木崎は記憶を探るが見つからない。限界まで追い詰められ、自分なりの答えにたどり着いた少年に返す言葉などなかったのだろう。当たり障りのない綺麗事を並べ、仕事の一つとして終わらせた。  木崎にはそうするしかなかった。少年の中では、それが答えなのだから。  あれから数年経った今。  木崎は自分の息子が書いた遺書を握り、自分の正義感や倫理観と争っていた。  遺書には目を覆いたくなるような内容が書かれている。その多くは、あの少年が言っていたことと同じだった。  何をされて、何を思ったのか。どれほど苦しく、悲しかったのか。どうして誰も助けてくれないのか。  あの少年と違うのは解決方法。自分には全てを捨てて逃げるしかできない、と綴られていた。  いじめに立ち向かうことができず、命を投げ出して逃げる自分を許してほしい。そんな息子の言葉は、木崎の心を塗り替えていく。 「……あの少年のように、生きていて欲しかった」  暴力に立ち向かう暴力を、今の木崎は否定できない。  今も生きているあの少年を、思い出さずにはいられなかった。
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