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「またきたのか」
どこからともなく、声が聞こえた。
年齢も、性別も不詳。くぐもった声はまるで、耳で聞こえるというよりも、心に直接聞こえているように感じる。高くなったり、低くなったり、早くなったり、遅くなったり。おおよそ一人の人間が出せるような声ではない。しかも、どちらの方向から聞こえてくるのかもわからない。
バケモノの声。
と、何も知らぬものが聞いたなら逃げ出していることだろう。
「あなたが首を縦に振ってくださるまでは何度でもまいります」
けれど、女は全く動揺することもなく言った。
「ほかの物はともかく、これだけは貰っていただかなければ、困りますので」
その表情には僅かの怯えも、恐れもない。真っすぐに小道の延びる先を見据えて、彼女は続けた。
「いらんといっておろうが」
また、どこからか声。けれど、それは、先ほどまでと違って、普通の男性の声だった。ただ、どこから響いてくるのかは分からない。
「金銀もダメ。山海の珍味もダメ。着物や反物も、いらないと返されました。でも、ご領主様は『望むものを差し上げてもてなせ』と、おっしゃいました。もらっていただかなければ、里の長が罰せられます」
声のする方向も構わずに、女は答えた。その表情には揺るぎない決意がある。そして、代わりに悪意は一切ない。
「そんなもんはいらん。もらったことにしておいてやろうから、お前は帰れ」
聞こえる方向すら分からない声に、女の態度に困ったような、呆れたような色合いが籠る。恐らく、声の主は手を『しっし』と振って、追い払おうとしているのだと目に浮かぶようだ。
「それは、できません。私は、あなた様のイケニエにえらばれたのですから。命惜しさに逃げ出したと思われては心外です」
女の言葉に、大きなため息が聞こえる。
同時に、松の枝が落とす闇が幾筋も集まって、固まって一つの大きな影に変わる。その中から、一人の男が現れた。
「阿呆が。イケニエなどいらんといっておろうが」
狩衣に差袴。烏帽子は片手にひっかけて、くるくると弄んでいた。瞳が赤い。目元に同じ色のライン。見上げるくらいの巨躯だが、女は怖いとは思わなかった。
「俺は人など食わん。大体。お前のような骨と皮ばかりの女、美味いはずがなかろうが」
上から下まで女を眺めてから、ため息交じりに男は言った。ひらひら。と、片手を振っていらないとの意思表示をしている。
「それなら、小間使いでも、夜伽でも何でもいたします」
女は醜いわけではなかったが、美しいわけではなかった。ただ、貢物というには、所謂女性的な魅力に欠けていた。
「親のない私を育ててくれた里のものに恩返しができる一度きりの好機なのです。なんとしても、もらっていただかなければ困ります」
女が選ばれた理由は、ただ、親も兄弟もなかったからだ。かといって、別に親がないから無理矢理生贄になれと里を追い出されたということもない。
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