通過儀礼

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通過儀礼

   Aさんが新卒として入社した時の話である。  「今度の日曜日、『通過儀礼』をやるからね」  新人の研修が一通り終わった頃、人事の偉い人がそう言った。  (・・・通過儀礼?)  Aさんを含む新入社員たちは、こぞって顔を見合わせた。皆、通過儀礼という不穏な言葉の響きに、不安を感じているようだった。  その様子を見て、偉い人はハッハッと腹を揺らして笑い、  「そんな不安そうな顔をしなくても大丈夫だよ。通過儀礼というのはね、お花見のことなんだから」  と、言った。  (なんだ仰々しい。お花見のことか)  一体何をさせられるのだろうと戦々恐々していた新入社員たちは、皆一様にほっと胸を撫で下ろした。しかし━━    なんで、お花見が通過儀礼なんだろうか?  Aさんは疑問を抱いた。  「すいませーん、何でお花見が通過儀礼って呼ばれてるんですか?」  疑問を抱いたのはAさんだけではないらしく、同期の1人が手を挙げて質問した。  偉い人はニヤリと笑った。その笑みに、Aさんは嫌なモノを感じた。  「それはね、このお花見を通して、キミたちには、我が社でやっていく上での、とても大切なことを経験して貰うからだよ」  偉い人がそう言うと、面倒くさそうな顔をした年配のOLが、ダンボールを載せたカートを押して現れた。  偉い人とOLはダンボールの蓋を開け、中にあったモノをAさんたちに配った。  みんな、困惑した表情で『それ』を受け取った。  オムツだった。  「皆さんには、今度のお花見に、それを着けて出席してもらいます。お花見の間は、オムツを脱ぐことも、変えのオムツをつけることも禁止です。当然、トイレの使用も禁止です。排泄は、すべてオムツの中でやってもらうことになります」  何が当然なのか一つも分からないが、偉い人は何故か満面の笑みでそう言った。  しん、と場が静まり返る。  「・・・あ、あの、何でそんなことをしなければいけないんですか?」  Aさんは恐る恐る手を挙げて質問した。  偉い人は良くぞ聞いたと言わんばかりに破顔し、  「私たちの仕事は、一分一秒が勝負の世界です。故に、トイレに時間を使うなどもってのほか。排泄など、すべて『ここ』で済ませてしまえばいいのです!」  と言って、自分の腹を太鼓のように叩いた。スラックスの隙間から、オムツのゴムがチラリと覗いていた。  「最初はとにかく不愉快で、中がかぶれたりして大変ですが、慣れてしまえばどうということはありません。その内、逆にコレを履いていないと不安になるようになりますよ」  そう言って、偉い人は再度ハッハッと笑った。  Aさんを含め、新入社員はみんな黙って俯いていた。  「翌日、同期の大半が辞表を出しました」  しかし意外なことに、Aさんはその会社に残ったという。  「体制がどうであれ、給料と業績は安定している会社でしたから」  『通過儀礼』には、言われた通りオムツを着用して臨んだ。しかし、Aさんは、人間としての意地とプライドを賭け、お花見中は一度も排泄せずに我慢したという。  「弊社は、仕事中はオムツ着用トイレ厳禁が暗黙のルールでしたが、私はそれに陰ながら反発し、オムツを着用せずに出勤していました。何度も『もうダメだ!』と思うことがありましたが、なんやかんやどうにかして、何とかこの年まで、粗相をすることなく勤め上げることが出来ましたよ」  Aさんをそこまで動かした原動力は、自分がこの会社の悪習を変えてやる、という強い気持ちだったそうだ。  その甲斐あってか、現在、Aさんは人事部の『偉い人』にまで昇りつめている。  「正式な役職名は、障りがあるのでご容赦ください。とにかく、私は『偉い人』になったその日に、役員会議でオムツ着用の廃止を強く進言しました」  ちょうど、パワハラだのモラハラだのという言葉が市民権を得ようとしていた時代だった。時代の後押し、そして何より、オムツ着用の発案者である創業者の死去が大きかった。驚くほどあっさりと、オムツ着用の社内ルールは廃止となった。  「みんな、本当は内心、うんざりしていたんでしょうね」  ちなみに今でも、Aさんの会社では、『通過儀礼』という言葉では呼ばれなくなったものの、毎年新入社員の研修が終わる頃には、社員全員参加のお花見が開催されるのだそうだ。  「毎年、お花見の前には、新入社員に向けて、トイレの使用は自由です、と伝えるんですが・・・」  みんな、何言ってんだコイツという顔でAさんを見るのだそうだ。  「当たり前なんですけどね。かつての悪習のせいで、一応伝えておかなければ、という気持ちになってしまうんですよ」  困ったものです、と言って、Aさんは照れくさそうに笑った。          
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