夜桜観音なおいでる

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夜桜観音なおいでる

 大正十年四月十一日──春爛漫の飛鳥山に数多(あまた)の花見客が訪れていた。飛鳥山といえばかの八代将軍・徳川吉宗公ゆかりの行楽地として知られる桜の名所であるが、上野に比べ来場客には庶民が多く、泥酔者は四百人を超えたという。東京禁酒会や警視庁が救護所を設置し医師や事務員が待機するもののこれではとても手に負えない。  しかし毎夜絶え間なく迫りくる酔っ払いの大軍をバッサバッサと(さば)ききる、一人の男性医師がいた。花の盛りの夜だけに現れる飛鳥山の救世主──人呼んで、 『夜桜観音なおいでる』 「急患! 急患!」  星空を囲みくずおれる花の下、さんざめく人の海を一艘の白船、否、白い担架が切り裂き走る。  煌々(あかあか)と洋角燈の照らす救護所に担ぎ込まれた青年は若年で、恐らく酒を覚えた頃かと思われた。可哀想に。優しげな眼は涙に潤み、半開きの唇は苦しそうに震えている。 「ああ、こいつもばっちり酔ってんなぁ。ちくしょう」  真っ赤な顔、うんうんと浅く息を吐き上下する胸──誰が見たって分かるような泥酔であった。  青年を一目見て、医師はげんなりと頭の後ろを掻いた。医師は若かった。救護所に配置された面々の中でもひときわ若く、年の頃は三十路前。鼻筋の通った精悍な顔つきに白衣の上からでも分かる逞しい腕肩──ぱっと見は医師と言うより軍医官のような風体であった。
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