桜が舞う中で

1/5
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
「もうお花見はできないのね」  自宅のベッドの上で、枯れ枝のように細い体を起こし、アルバムを眺めていた妻の絵美が掠れた声で呟いた。  ベッドサイドの椅子に座り、一緒にアルバムを見ていた俺は、視線を床に向けた。 「……そんなこと言うなよ」 「……ごめんね」  掠れた小さな声で謝罪を口にする絵美に返事ができなかった。  絵美は末期癌で、余命一ヶ月と宣告されたばかりだ。そうでなくとも、痩せ細り、ほぼ寝たきりの絵美が、四ヶ月後の桜の開花までもたないのは、素人の俺から見ても明らかだった。  絵美は再びアルバムの写真を見つめた。  それは、俺が撮った絵美の最初の写真だった。 ***  高三になったばかりの春休み、写真部の部長になり、張りきっていた俺─柏木新太─は、部活動で学校にきていた。部室の窓から外を見ると、春らしいミルキーブルーの空が広がっていた。 「今日は、春らしい良い写真を撮るぞ」  俺は気合いを入れ、買ったばかりのデジカメを持ち外へ出た。お目当ては校門の側にある桜の木だ。今、まさに満開を迎えている。 ミルキーブルーの空とミルキーピンクの桜。最高の一枚が撮れそうだ。はやる気持ちを抑えながら、校門に向かう。春休みだから人なんていないだろうとと思いながら。  見事な満開の桜と共に人影が目に入った。  ──あ、誰かいる。  女子生徒が桜の幹に左手を当てて、花を見上げていた。右手にはスケッチブックが抱えられている。  ──塩原絵美─美術部の部長だ。  桜の幹にあてられた塩原の白い手が、幹の黒色により儚く浮かびあがり、花を見上げている顔は、花が反射しているかのように淡い桜色に染まっていた。俺は無意識のうちにデジカメのシャッターを押していた。  塩原が俺に気づき振り向いた。 「柏木くん? どうしたの?」 「部活だよ。桜が満開だから写真を撮ろうと思って。塩原は?」 塩原の写真を撮ったことがバレていないか、ドキドキしながら返事をする。 「私も同じ。桜を描きたくて」  そう言いながら、弧を描く口をスケッチブックで隠した。  少し首をかしげながら上目遣いで見つめるその仕草に、俺は顔が熱くなった。塩原はそんなことは気に留めず、満開の桜へと視線を移す。 「ソメイヨシノって、明治時代初期から盛んに植えられたのよね。皆、この桜に魅了されて、新しい時代に心躍ったのかな」  塩原の白い左手が、再び黒い桜の幹へとのびる。俺は塩原から目がはなせなかった。 「こんなに華やかで綺麗なんだ。心躍るのは当然だよ」  塩原がこちらを見た。 「柏木くんも、心躍る?」  真っ直ぐな視線に、俺の鼓動が激しくなる。 「あぁ! 俺達、部長になっただろ。それを祝福されてるみたいだからな」  どちらかというと、今は塩原に心が踊らされている。 「そうね。まさに私達を祝っているみたいね」  塩原の無邪気な笑顔に心臓がドキリとはねる。  その時、春の強い風が桜の花びらを舞い上がらせた。はらはらと舞い落ちてくる桜の中、笑顔の塩原が乱れた髪を整える。鼓動が止まらない。もう写真を撮るどころではなかった。  俺の恋が始まった瞬間だった。 ***  今年も絵美と桜を見れると思っていたのに……どうして絵美が……。 「新太?」  険しい顔をして黙り込んでしまった俺に、絵美が心配そうに声をかけた。 「あぁ、ごめん。なんでもないよ」  俺は無理やり笑顔を作り、絵美を見た。  絵美は少し困ったように目尻を下げて首を傾げたが、何も言わずにゆっくりと横になった。  もう声を出すのも辛いのだろう。  静かに目を閉じた絵美が眠りについたのを確認し、俺はアルバムを手に取った。アルバムの中には、桜と笑顔の絵美の写真がたくさん納められていた。  ──あぁ、絵美は本当に桜が好きなんだな。  ──もう一度、絵美に桜を見せてあげたい。  アルバムのページをめくるたびに、懐かしさと切なさがこみ上げてくる。  ──でも、冬に桜なんて……。  俺は静かに息を吐いて、アルバムを閉じた。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!