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1話 こもり姫、まだいる。
「お久しぶりです」
「あら、わざわざ来てくれたのね」
「はい」
「あたし、恵まれているわ。みなさんわざわざ挨拶してくれてね。アパート取り壊しの前に来てくれたのは、ミノルくんが最後かしらね」
三月末。
二階建て古アパートの一室で冷たい黒豆茶を啜る。
床は丸出しで、部屋には小さなテーブルと敷布団だけがある。
大家は白髪だが背筋は伸びている。
八十歳を超えているらしいが、今も目の前でフライドチキンを貪っている。
「そうですか」
「そうよ。ありがとね。こうして顔を見ることができて大変嬉しいわ」
「俺とヒメちゃんは大家さんに一番お世話になっていたので。感謝してもしきれません」
「あら。そうだわ、帰る前にヒメちゃんに会ってきなさいな」
「あ、近いところに住んでいるのですか」
「いや、それがね」
大家さんは困った表情をする。
顎に添えた手は以前よりもシワが増えている気がした。
「どうかしたんですか?」
「たった一人、まだ住んでいるのよ。まだ引っ越し先が決まっていないみたいで」
「え?」
「来週には取り壊してしまうでしょう。ミノルくん、どうにかできないかしら?」
「分かりました」
部屋を出て階段を上る。
階段は錆びて茶に変色していたり剥がれたりしている。
俺は元々借りていた部屋を通り過ぎてインターホンを押した。
「ふわあい」
寝息のように声を出している。
「開いてますよ、大家さん」
「大家じゃないんだが?」
「ふぁ。もしかして、ミノルくんっ?」
扉が開いた。
掛け布団に包まれて玄関で倒れている少女がいた。
ヒメちゃんは部屋にいる。
俺は握りこぶしを隠しながら部屋に入った。
アパートを取り壊す日が迫るなか、ヒメが引っ越しの準備を一切していないらしい。
面倒くさがり屋らしいと思うが、大家さんは困っているのだ。
「久しぶり。元気にしてたか?」
「うーむ。よく寝てますとも」
「引っ越さないのか?」
「なんですかそれ」
「いや、アパート取り壊すんだぞ。ホームレスになるのか」
「ニョキニョキッ」
ヒメは俺の話をまともに聞いていない。
声を出して布団から抜け出した。
シャツが乱れてピンク色の下着が透けている。
「おい」
「えっちですね」
「どんな格好してるんだよ」
「ミノルくんを誘惑してるんですよ」
「俺が今日来るのは大家さんしか知らないだろ」
「そうですね。でも」
ヒメは立ち上がる。
そして後ろを向いてしまった。
「いつか来るってことだけは分かっていたので」
ヒメは後ろで手を組んで、振り向いた笑顔を見せてくる。
俺たちは再会した。
懐かしい春の香りがする、別れの季節に。
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