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罪と野獣と美女と罰 第四話
翌日。昼休み。
鈍い日差しが積雪を煌めかせる中、白息を追い越すようにそそくさと校舎を抜け出す。
嫌でも目に入る校庭の巨木を視界に捉え、脳裏に蘇るのは昨日の部室でのやりとり。
巨木の謎と、赤い服の少女。この二つの匂いが同じって、一体どういうことなのだろうか。最近芽生えた謎と、古式ゆかしい七不思議。この二つに共通点なんてあるのか?
そんなことをつらつらと考えながら巨木を通りすぎ、赤い服の少女が佇んでいたという校門を抜ける。
足の向かう先は里々の家。なんのことはない。ただの昼ご飯である。
道中にはちょっとした商店街があり、色とりどりのライトアップが雪に映え、どこからともなく軽快な音楽が流れている。目にも耳にも心地良いこの時期の喧騒はひねていない僕にとって心躍るものであり、自然と足取りも軽くなる。
遊具が封印された公園の横を通ると、氷点下にも関わらず半袖半ズボンで駆け回る子どもたちを若いお母さんたちがにこやかに眺めていた。
他の地域の人間が見れば上品な虐待かと疑うレベルの光景だが、僕も昔はあんなんだった。
真冬に薄着でつららを舐めて、カチカチのバナナでチャンバラしつつ、どっかのアホみたいに濡らしたタオルを振り回し、凍った川の上でイマジナリーフレンドと仲良く跳ね回っていた記憶がある。
そんな無邪気で腕白だった少年が今となってはコートにマフラーに手袋にと完全防寒なのだから、時の流れは残酷である。
公園からさらに一分ほど歩き、子どもたちの弾む声を遠くに聞きながら目当ての店に到着する。
『百福』
おやっさんが手がけたイカした看板の下にある、『わやかたじけなし!』という吹き出しが書かれた里々の写真を悲しく見つめながら引き戸を開けて、暖簾をくぐる。
「いらっしゃい! ってお前か。やっと店継ぐ気になったのか?」
焦げたソースの甘美な香りと、幾度となく耳にした台詞が挨拶代わりに飛んでくる。
両手にヘラを構えてヘラヘラする里々がプリントされているトチ狂ったエプロンで、各部が冗談みたいに盛り上がった肉体を包むこの髭ヅラオールバックのおやっさんは、この店の店主。里々の父親である。
頭頂部が百九十センチを優に超す、僕が物理的に見上げる数少ない人間。
「だから継がないって言ってるじゃないですか。昼飯ですよ、昼飯」
僕のどこを気に入ったのかわからないが、おやっさんは僕に店を継がせようといつもあれこれ画策してくる。
実は引っ込み思案だった里々が、パパを介してちょっとヘビーなアプローチを仕掛けているとかだったらどうしようと考えたこともあったけど、その考えは里々と共に過ごす時間と反比例して見事にかすれていった。
「お前一体なにが不満なんだよ。毎日うまい粉物食えて、デザートには里々も付いてくるんだぞ? あの体を一人占めだぞ?」
胸の前で両手をわさわさとグーパーさせながら娘の貞操を安売りする、見下げ果てたバカ親。あの里々を育てただけあって体格も性格もでっかいというかなんというか。
「一人占め……」
間に受けてしっかり逡巡するあたり、僕も僕でしっかりバカなんだけど。
「ちょっと見てみろこの柱の傷。これは娘の成長記録でな」
「ん?」
おやっさんが体を預ける太い柱を見ると、確かに傷が何本も走っている。走っているけど……。
「なにこれ。まさかおやっさん、里々を横に抱えて身長測ってたの?」
柱の傷は縦線で、年齢を示すであろう数字と一緒に、左右に渡って何本も刻まれていた。
「身長? これはあいつのおっぱいの成長記録だぞ? ほら見てみろ、この十歳から十一歳になる間の距離を」
「なんかもう……すげーや!」
僕の周りにはバカしかいないのかよ。横に足される柱の傷なんて初めて見たよ。
言葉に窮する機会なんてそうそう訪れないと思ってたけど、こんな親子が存在する事実や第二次性徴の凄まじさやらが頭に飛び込んできて、僕はもうパンク寸前である。
「柱の傷ってもっとほのぼのするはずだろ!」
なんとか言葉を紡ぐものの、
「そうだろ? 惚れ惚れするだろ?」
というおやっさんの返答を受け、バカには勝てないんだと悟ったのだった。
「でも大変だったんだぞ? 買う服買う服すぐにサイズが合わなくなっちまってな。金がかかって仕方ないもんだから副業も始めたんだよ」
おやっさんはそこまで言うと、ビリっと聞こえるほどに度を越した腕まくりをして、
「そうして完成したのが、この筋肉だ!」
と、サイドチェストを披露した。
もはや考えることを放棄して、歪に折れ曲がって変な顔になってしまったエプロンの中の黒ギャルを眺めていると不意に、バコン! という音が店内に響き渡り、おやっさんの首が体にめり込んでアゴが数センチだけ前に飛び出した。
「おい店長! 忙しいんだからちゃきちゃき働いてください! ランチタイムですよ? 油売ってないで、鉄板に塗りたくりなさい!」
「七さん!」
武器にも給餌にも使えるおぼんを片手に颯爽と現れて僕を絶体絶命の窮地から救い出してくれた彼女は、この店唯一の正規従業員で僕らの高校の大先輩でもある、七飯七さん。
俗っぽく言えば、均整のとれた顔立ちに長い手足のお姉さん。アホっぽく言えば、キリッとしてスラッとしたチャンネーである。
「おぉ七ちゃん、すまんすまん、こいつがよぉ……」
「いいから早く焼きそば作ってきてください! ほらこれ、オーダー! 大盛り!」
七さんの怒涛の正論に言開く隙も与えられずたじたじとなったおやっさんは、
「こいつがうちの娘でいやらしい想像してるもんだからよぉ……」
などと、片棒を、というか棒のほとんどを担いで暴れていたとは思えない言葉をブツブツと呟きながら、オーダー票をつまんでおずおずと厨房へ消えていった。
「まったく……。ごめんなさいね、いつもいつも」
睨み顔でおやっさんを見送った七さんが、こちらに向き直って笑みを咲かせる。
「いえいえ、僕も悪い気はしてないんで大丈夫ですよ」
畳み掛けるボケには苦労するけど、跡継ぎの話なんて考えようによっては極上の嫁が安定の進路を背負ってやってきてるようなものだし。
まぁその土台を支えてるのがあのおやっさんだから、実際はなんともおっかないトーテムポールが迫ってきてるようなものなんだけど。
「あ、それとごめんついでなんだけど、今日は相席でもいいかな?」
上目遣いで眉尻を下げる七さんと、底抜けの笑みでエプロンに張り付く里々。
「相席……ですか?」
テーブル席に小上がりにカウンター。全体的に黒々と統一された店内は誰の趣味か、和のテイストがふんだんに散りばめられている。
そんな店内をぐるりと見回してみると、確かにいつもよりは人が多い気がする。でも混んでいるとはいえ、まだ空席はちらほら見受けられるのだけれど。
「予報だと今日はこれから暖かくなるらしいからさ、きっとまだまだお客さんが来ると思うの。年末だからみんな財布の紐も緩いしね。それに相席と言ってもほら」
みどりなすポニーテールを弾ませた七さんが店の奥まった位置に向けて指を伸ばすと、その先には四人掛けのテーブル席に腰掛ける見知った小さな後ろ姿が一つ。
「そういうわけだから、よろしくね空音くん。すぐにお冷持ってくから」
有無を言わさずパタパタと厨房へ消える七さんを見送り、仕方がないので指定されたテーブルへ足を向けた。
飯時くらいはツッコみたくないんだけどな……。
「なにしてるんですか先生」
鉄板を覗き込むようにして前屈みになっている不思議な後ろ姿に声をかける。
後ろから、だーれだ? と先手を打ってやろうかとも考えたが、万が一当ててもらえなかった際のダメージが計り知れないのでやめておいた。
「お、その声は少年か。授業ぶりだな。なにしてるかってほら、見ればわかるだろ。鉄板の熱でメガネを曇らせて遊んでるんだよ」
そう言って上げられた先生の顔には、
「メガネかけてねぇーーーっ!!」
メガネのメの字もありはしなかった。
「こえーよ! ほのぼの系のギャグかと思ったらこえーよ! これどんなジャンルのボケなの!?」
「奥が深いだろ?」
「闇が深いんだよ!」
愛冠トドメ。
強すぎる名前に抑圧されてか、果物の個数で答えた方がわかりやすそうなミニマムサイズに収まったこの白衣の現国教師はなにを隠そう、我がディベート部の不名誉幽霊顧問である。ちなみに僕はこの教師の自己紹介の際に、名は体を表すという言葉が嘘なのだと知った。
「なんだ少年。一人か? 悲しい奴だな。一緒に食べてやろうか?」
こいつ自分の攻撃は効かないタイプか?
「言われなくても座らせてもらいますよ。七さんがね、書き入れ時だからお前らはまとまって座ってろってさ」
「七が? 七の言うことはけったいだな。まぁいい、ほら、座るといい」
王様ゲームの掛け声みたいな感想を述べ、自身の隣の席をポンポンと叩く先生。僕はそれを無視して、向かい合うようにして席に着いた。
「つれないな……」
なんて先生が呟いた直後、パタパタと七さんがやってくる。
「はい、お待たせ。注文はいつものでいいかい?」
テーブルに水と氷で満たされたコップを置きながら、僕を常連扱いしてくれる七さん。少しこそばゆかったが、なかなかどうして悪くない。
「はい、いつものでお願いします」
「あいよっ! ランチセット、こっそりで!」
いつものようにこっそり大盛りにしてくれると高らかに宣言する七さんであるが、大声でこっそりとはこれ如何に。安っぽい無理問答であった。
「ちょっとトドメ、あんたそれ残すんじゃないだろうね?」
鉄板の上に切り残されたステージ上で鰹節が踊り疲れているのを見つけ、先生に強く問いただす七さん。
「残すつもりはないよ、七。私はジープに乗った米兵さんからギブミーチョコレートしてた世代だぞ? 食事の後には皿も残さないさ。今はほら、脳を酷使してお腹を空かせてる最中なんだよ。割り箸の袋で鶴を作っている。邪魔しないでほしい。うっぷ」
「いやあんたいくつだよ」
確か三十ちょいだったような。そして折り鶴作るだけで酷使できる脳を持ってよく教師が務まるな。
「注文時にあれだけ確認したよね? 大盛りの意味知ってるのか? 自分のサイズわかってるのか? って。そしたらあんたなんて言った?」
「……? 七って、照れてる時と怒ってる時は絶対に顔認証パスできないよね……って言った?」
「言ってないわ! きっとパスできるわ! あんたはね、『ちょっと待って、今アカシックレコードに接続するから』って言ったんだよ! ピピピ、ピピピとか言ってさ! 大盛りの意味調べるくらいで神秘に触れるんじゃないよ!」
悲鳴にも似たツッコミを放ち、少しだけ満足そうにはぁはぁと肩で息をする七さん。僕なんかより格段に熟成されたツッコミ根性が、燎原の火のごとく吹き出していた。
さすが七さん。二人は高校の同級生とのことだから、結構な付き合いだけあってちょっとしたやりとりの中にも年季の違いを漂わせている。よくこんなちゃらんぽらんと今まで関係が続いたものだと思うが、七さんはきっと見た目以上に心の底から優しいのだろう。
「大丈夫ですよ七さん、これは僕が食べますから」
水滴の伝うコップを手に、おためごかしの助け舟を出してみる。
「あ、そう?」
落ち着きを取り戻すようにふーっと息を吐いてから、僕の耳元で囁くように、
「アホのトドメには内緒で小盛りにしてあるから平気だと思うけど、食べきれる?」
と続ける七さん。
女性特有の甘い香りがソースの香りに打ち勝った瞬間だった。
しかし大盛りに挑もうとしてた奴に小盛りを残されたのでは、七さんの語気も頷けるってものだ。先生のサイズのせいで気づかなかったけど、鉄板の上に半円形に切り残されたお好み焼きは確かに直径が小さく見える。
「図体デカいんで問題ないです。それより、僕の注文をお願いしていいですか?」
デジタルな注文形態を採用していないこの店では、ここで漫才を繰り広げられている限り僕の注文はいつまで経っても厨房に届かない。
それに、先ほどからパートのお姉さんがせわしなく動き回ってるのも気になった。どうやら七さんも楽しくなると周りが見えなくなる手合いなのだろう。店は七さんの予想通り、大繁盛である。
「そうだったごめんごめん! すぐに持ってくるからね!」
踵を返した七さんがパートのお姉さんに、「ごっめーんエロイーザさん! それ終わったら二番テーブルの掃除も頼める?」と声を掛けながら厨房へ消えていく。
「エロイーザさん!?」
肉感志向のおやっさんがブラジル人のパートさんを雇ったとは聞いてたけど、ずいぶんと日本じゃ生きにくそうな名前だな。
「少年。エロイーザさんをそんな目で見るな。私には彼女の気持ちがよくわかるよ」
残したお好み焼きをハンカチ落としの鬼のようにこそこそと皿に載せてよこす先生は、そういえば愛冠であった。
「私たち日本人は、外国人の名前にはその国その国で響く美しい意味があることを理解すべきだし、下着のサイズはアルファベット順ではなくあいうえお順で示すべきなのさ。そうすれば私は名前通りの見た目になるからな」
一瞬、前途ある若者に教師らしく人の道を説くのかと思ったけどもちろんそんなわけはなく、後半に悲痛な本音が見え隠れしていた。
わなわなと両手を震わせる姿は、どう見てもお菓子を食べ損ねた少女である。
下着のサイズをあいうえお順にして……あいカップ。なんでこんなとこでそんな事実を聞かされなきゃいけないんだ。
目算では果奈の方がいくらか大きいので、果奈は『うカップ』とかだろうか。いずれにせよ、里々とはバイ菌と純金くらいの大差がある。どちらが純金かと言われれば、まぁそれは人それぞれだ。
「お待たせ、空音くん」
先生の上半身をぼんやりと見つめ、『見るべきものがない』なんて上手いことを考えつつあてがわれたお好み焼きをぱくついているところ、ようやく僕のランチセットが七さん便でご到着。
「ありがとうございます」
「あいよっ。ごゆっくり!」
快活な笑みで僕を照らした七さんは、お前は早く帰れとでも言わんばかりの視線を先生に向けたのち、二つ隣のテーブルで鉄板を清掃しているエロイーザさんのヘルプに向かっていった。 テーブルを拭く動作に合わせて、エロイーザさんの蠱惑的な腰回りが左右に大きく揺れている。ただの視覚情報の吐露である。
一方ぺらぺらの腰つきと人間性の先生はというと、七さんからあれだけ侮蔑的な視線を一身に受けたはずなのに、鉄板の上に水滴を垂らしてしゅわしゅわと蒸発する様子をキャッキャと楽しんでいた。折り鶴制作は紙をひし形に折った段階で断念したようである。
「さてと」
銀色のカップに山盛りに詰め込まれた生地。ランチのお好み焼きは豚とイカのミックスで、小さなサラダと食後のコーヒーまで付いてくるという大盤振る舞い。高校生には奢侈な代物であるが、気になる値段はなんと五百円。おやっさんが商売下手なのか、はたまた粉物の原価がべらぼうに安いのかは定かではないが、たかがしれているバイト代を頼りに生きる学生の身としてはなんともありがたい限りだ。
空気を取り込むようにスプーンを動かし、肉も海鮮も一緒くたに混ぜ尽くす。大きな具材は先に取り分けて鉄板で焼くというスタイルももちろん頭にはあるのだが、この店ではそんな上品な焼き方は流行らない。まぁ、僕がものぐさなだけなんだけど。
多めの油を塗りつけた鉄板の上に山海が混濁する生地を垂れ流すと、目覚ましに利用したくなるくらいに素晴らしい音が奏でられた。
「少年、タバコ吸ってもいいかい?」
生地の焼ける音の美しさに耽ることもしない先生は、僕の返事を待たずに咥えていたタバコに火を近づける。この店タバコ吸えんの?
「おまわりさんに言いつけますよ」
「公僕のお歴々が、一体私のなにを咎めるっていうんだい」
「あんたアカシックレコードとやらに自分の見た目を教えてもらったほうがいいですよ」
「なんだい口答えばっかり。内申に響くぞ?」
「それは卑怯だ」
紫煙を燻らせて吐いた煙とささやかな脅しで僕を牽制する先生は、見た目以上に中身が年齢不詳ではないだろうか。
「わかったぞ少年。最近うまくいってないんだろ。恋か? 恋なのか?」
百合の首が落ちたような不気味な笑みを浮かべて見当違いを口にする先生。
「現状で満足してますよ」
嘘ではない。傾国の美女と歩く猥褻物と肩を並べて部活動。誰かに怒られるんじゃないかってくらい恵まれているはずだ。
「いいや違うね。君は自分に嘘を吐いているよ。なんなら私が恋の駆け引きを伝授してやろうか?」
「ガキに恋愛の機微がわかるんですか?」
「任せたまえよクソガキ。吊り橋効果ってあるだろう? あれを使うといい」
「吊り橋効果?」
冗談みたいに小さな足先を前後にぶらつかせ、僕の向こう脛にやっとのことで攻撃を加えてくるトドメちゃん。文字どおり地に足はついていなかったが、殊の外話の流れに即した提案で面食らうよ。
「例えば……そうだな。目当ての女子の前で突然、反復横跳びを始めるってのはどうだろう。十往復もする頃には、こいつヤベェ奴だなっていうドキドキが恋のドキドキに変わるはずだ」
「変わるか! 変わるのは僕を見る目だけだわ!」
この人はそんな恋愛観をぶら下げて人生を歩んできたのか? もしかして誰ともお付き合いしたことないんじゃないのか?
「反復横跳びは気に入らないか? ならばいきなりスカートめくりを仕掛けるってのはどうだ? 今日日あまり聞かないが、だからこそだ。ドキドキすること請け合いだし、付き合った後のこともそれとなく示唆している。そしてなんだろう。その男らしさたるや、万が一失敗したとしても一目置かれるぞ?」
「距離置かれるわ!」
気持ちよく元気よくツッコんだところに、隣のテーブルに腰掛けるママさんグループの注目が集まった。傍から見れば、背伸びで法律を乗り越えてタバコをふかす少女と、それを怒鳴りつける大柄な高校生の図。このご時世、どちらに分があるのだろうか。
「これも気に食わないとなると、うーむ。なかなかどうして骨があるな。じゃああれだ。だーれだ? って後ろから視界を塞ぐやつがあるだろう? アベックの。あれを上手いこと応用して、『ボークだっ』て言って後ろから胸を揉むってのはどうだ? 変質者かと思いきや、振り向けばキメ顔の少年が微笑んでいる。こんな素敵なことが他にあるか? 万が一失敗したとしても胸は揉めるわけだから、男としての箔がつくってものだろう」
「前科がつくわ!」
「なんだ少年。君は存外、穿ったツッコミをするんだな。その調子なら七の名を継ぐのも夢じゃないぞ?」
「七さんって世襲制だったの?」
「ん、どうした少年。そこはほら、『七って名跡だったの?』の方がオシャレだな」
半目で下唇を突き出し、顔の横で両手をわさわさ。どうやら僕のマネをしているつもりらしいけど、網膜と視覚野の間にゴミでも詰まってるのかな?
愚にもつかない課外授業。根こそぎボケを拾ってやった上に駄目出しとはなんとも報われない。ひっくり返したお好み焼きもちょっと焦げちゃってるし、散々だ。
「ともあれだ。私が言いたかったのはだな、少年。青春を謳歌しろよってことさ」
思い出したように話をそれらしく不時着させる先生。急旋回すぎて目が回りそうだよ。
「だから、謳歌してますよ。順風満帆です」
確かめるように口に出した。
先生の怒涛のボケが途切れたので、ソース、マヨネーズ、鰹節と青海苔をふりかけてから、少し焦げたお好み焼きを口に運ぶ。
「うまっ」
やっぱりできたては段違い。噛むたびに幾何級数的に旨味がほとばしり、飲み込む前に次の一口を脳に強制するサディスティックな食べ物だ。どんな凶悪犯だろうが、尋問でこのお好み焼きを出されれば情報なんていくらでもくれてやるだろう。
「部活はどうだ? 声問と輪厚は元気か? もうチューはしたか?」
僕の至福の時間を邪魔すべくまたしても口を開いた先生が、汚れた割り箸でお好み焼きをツンツンと陵辱し始める。
いじらしい思春期の高校生にそんなことを言うなんて、どうやらこの人もユーモアを履き違えたクチであった。
「相変わらずですよ。部活も、二人も」
弄ばれたお好み焼きを皿に避難させながら静かに答える。
「でも先生、昨日里々と話したんじゃないんですか? 部室に誘ったのに、ツバまで吐きかけられて一も二もなく断られたって聞きましたけど」
「ん? あーそうだったな」
灰皿に根性焼きを施しつつポリポリと頭を掻く先生。
「昨日はアレだ。畑が心配だったからちょっと見に行ってたんだよ」
「あんたの頭の中だけ台風でも来てたのか?」
「まぁそう腐すな少年。これでも心苦しくは思っているんだよ。顧問としてなにもしてやれないこと、というかなにもする気がないことを」
「口にオムツ履けよ。本音がだだ漏れじゃねーか」
「生徒と本音でぶつかる熱血教師を目指している」
「そう聞くと格好いいなおい」
あー言えばこー言うを高いレベルで実践する先生に対して、僕に残された術はもはや暴力を伴ったツッコミだけかもしれない。
「ところでお前ら、ケバ部……だったか? それは一体どんな活動を旨とする団体なんだ?」
「こっちが知りてーよ! 肉でも焼くのかな!?」
立ち上がりそうになる気持ちを抑え、お好み焼きを含んだままの口で勇ましくツッコむ。
「ディベート部だろうが。あんた顧問だろ」
「あぁディベートか。おっぱいとお尻、どっちがいい? とか喧々諤々やるアレか」
間違ってはいないが、どうにも馬鹿にされた感が否めなかった。
「今、うちの学校の七不思議についてディベートしようとしてるんですよ」
今頃あの二人はなにをしているだろう。
昼休みも当然のように二人で過ごしているはずだから、いつものように部室でお弁当だろうか。里々の健啖は果奈の食事にまで及ぶから、それぞれ逆の意味で心配である。
「七不思議? 七のなにが不思議なんだ。あいつは少年と同じで、素敵なまでに単細胞だぞ。正義感が強くて不器用で、融通の利かない堅物だ」
「七さんの不思議じゃなくて、学校の七不思議ですよ。まぁ、正確には八不思議なんですけどね。今は、『赤い服の少女』ってやつを調べてます」
実際はただ待つだけという極めて受動的な調査もどきなのだけれど。
「赤い服の少女って、校門でどうたらってやつか?」
「そうですそうです。知ってるんですか?」
僕のなんの気無しの質問になぜかたっぷりと間を置いた先生は、コクンと水を飲んでから、呪いの絵として描かれた絵画の中の少女のような瞳で僕を見上げた。
「知ってるもなにも、それは私のことだ」
カラン、と音を立てて、コップの中の氷が溶け落ちた。
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