桜の君に恋をした

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 桜。かの木は何故に我々の心を惹きつけるのか。  桜。かの木は何故にそこまでの明媚を兼ね揃えるのか。  桜。舞い踊る花びらは何故に彼女の美を引き立てるのか。  私は、向かいのベンチで一人居眠る彼女に見惚れていた。  ──  大学構内、講堂からはかなり離れた園庭。この地を訪れる者は少ない。立派な桜の木が聳え立ち、向かい合うように二つのベンチが備え付けられているこの場所は一見すれば花見には格好の場所である。しかし、此処を訪れる人間はそういない。そんな人間は私のような好事家ぐらいである。  かつての学生運動にて命を散らした若者の死体が埋まっているだとか、五寸釘を打ちつけた後だらけであるとか、不審者が出るとか、眉に唾すべき黒い噂が絶えず語られているのだ。桜ならばキャンパスの至る所に植っている。講堂から遠い上、黒い噂に染まった桜など私以外に誰が見に来るものか。  それなのに、彼女はそこに居た。ベンチに座っていた。眠っていた。その姿はさながら一枚の絵画であった。桜の君、と形容せざるを得なかった。  彼女が眠りこけるは私の定位置であったが、私は紳士だ。彼女を退かすような無粋な真似などしない。苦渋を舐める思いで通路を挟んだ向かいのベンチに腰をかけ、桜の君をじぃっと見る。  長いまつ毛。寝息とともに揺れるそれは、彼女に大きな瞳を予感させる。  潤った唇。柔らかそうで色艶に優れるそれは、指先ひいては私の唇で触れたいと思える。  細い指。華奢で繊細なそれは、私のような粗忽者が触れれば容易く砕けてしまうやも知れぬ。  露出した太腿。名に恥じぬ肉付きのそれは、思わず顔を埋めたくなる衝動に駆られる。  薄桜色の下着。春の柔らかな陽光に照らされたそれは、微かに開いた太腿の間よりその存在を私の目に焼き付けさせる。  私の目はやや下向きに、彼女の虜であった。  公共の場でアラレもなく下着を曝け出す彼女を放っておくことはできない。私は、彼女の秘部を守るためにもこの場から動けないでいた。  それにしても、どうにかして彼女とお近付きになることはできないだろうか。私の頭はそれだけであった。嘘であった。それと、桜の君の下着だけであった。 『こんなところで寝ていては風邪をひきますよ』と、私の上着をかけてあげるのは如何であろうか。いや高級なジャケットであるならばいざ知らず、私が羽織るは量販店の型落ちダウンベスト。ほつれて顔を出す羽毛をテープで目隠している始末、更にいえばちょっと臭い。こんなものをかけられた彼女の身になってみろ。ボロの上着を羽織って公共のベンチで眠る。如何に彼女の美しさを持ってしても、殆どホームレスではないか。許されざる行為だ。やめるに限る。  敢えて、向かいのベンチではなく彼女の隣に座るのは如何であろうか。船を漕いだ彼女の重心が私に傾けば、それはもう側から見ればカップルが成立しているのではないか。肩で受け止めた後、彼女の姿勢を正してあげようと胸元の膨らみに誤って触れてしまうことも辞さない覚悟である。しかしダメだ。だから上着が臭いのだ。それに、場所を移動してしまえば彼女のデルタ痴態の観測もなくなってしまう。やめるに限る。  では如何したらよいのだ! 私は頭を抱える。俯き目線は下がるが、視線は桜の君の股からは離れない。大学受験の時分よりも私の脳は酷使されている。酷使に酷使を重ねた私には、ある懸念が生まれようとしていた。  ──美人局ではないか?  恥も外聞もなくその薄桜色の下着を公開しているのは、罠ではないのか? 「何処を見ているのだこの変態野郎」と突如無頼感が木の影より現れて、私はどこぞの路地裏に連れて行かれて法外な金銭の請求や乱暴を働かれるのではなかろうか。桜の君に暴力を振われるのならば適正な金額を支払うこともやぶさかではないが、無骨な野郎に殴られるのでは面白くない。確認のためにも彼女の様子を窺わなければなるまいが、なかなかどうして私は目線を上げられないでいた。彼女の下着から目線を外す勇気が持てないでいた。いや、もう二度とこの光景を目にすることが出来なくなるかもしれないことを考えると、下着から目を離すことは勇気ではない。愚かな蛮勇であろう。真の勇気とは、下着から目を離さないこと。私は彼女の下着を見続けることによって本物の勇者となり得るのだ。 「馬鹿か、私は」  私はぽつりと呟いた。桜の君の下着を見続けていたいのならば、写真に残せばよいだけのことではないか。私はスマートフォンの無音カメラを静かに起動し、それを画像に残した。彼女の眠りを妨げないよう気遣える私は疑いようのない紳士であった。  改めて、私は桜の君の顔を見る。ぐっすりと寝こけていた。私の懸念は杞憂に終わったようだ。そもそも、彼女のような美しい君が美人局などする筈がなかったのだ。  私がほうっと安堵の息を吐くと、まるでそれに呼応するかのように一陣の風が吹いた。風は桜の木を揺らし、ひとひらの花弁を彼女の額に落とす。違和感を覚えたのか彼女は手で払い、花びらは湿った土に落ちていった。  私は思わず、彼女に触れたその花びらを拾って自分の口に含んだ。無意識、そう、考えるよりも先に動いていた。自分でも驚いていたが、顔を上げると、目を開いた彼女と目があってしまった。私は人畜無害で柔和な笑みを浮かべ、子どもをあやすかのように話しかける。 「なに、君の薄桜の下着は私以外は見ていない。私がきちんと監視していたからね」  紳士たる私の発言の何かが気に障ったのか、桜の君は汚物でも見るかのような目を見せてそそくさと立ち去ってしまった。  私は彼女が立ち去った後のベンチを見る。彼女が座っていたのは、私にとってこの場所の定位置であった。だから私が、彼女の柔らかな尻の温もりが残るその接地面に異常がないかを頬擦りしながら確認することは何ら不自然なことではなかった。 「何してるの。君の名前は?」  ベンチの検査をしている感心な若者たる私に声をかける物がいた。私が顔を上げると、そこには見知った警察官の姿があった。 「ああ、また君か……いい加減にしてくれよ。話は署で聞くからついてきなさい」  畜生! あのサノバビッチめが! この私を通報するとは薄汚え売女だ! 美人局と何ら変わりはねえハニートラップじゃねえか!  私は小さく可愛らしい兎の如くその場から逃げ出した。警察官を泡を喰らったようにぽかんと反応できずにいたため、私は身を隠すことにも成功した。  安堵すると、口の中に異物を感じた。そう、ビッチの額から落ちた桜の花びらだ。私は苛立ちながらそれを噛みつぶす。甘い春の香りが口いっぱいに広がり、その後に若干の渋さが残った。その味に私は、恋の終わりに似た感傷を覚えていた。
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