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「私、海で桜を見たことがあるの」と言ったら、夫は 「それは、海の近くということ?」と訊いてきた。
朝の時間、季節は春で、私たちはお花見に行く準備をしていた。今日の天気予報は快晴。お花見にはぴったりの日となるでしょう、とテレビでは言っていた。
「ううん、海の中。青くて綺麗な海の底に私はいて、足に海底の砂を感じながら、海の桜を見上げているの」
「ソメイヨシノ?」
「桜の種類、実は詳しくは知らないの。だけど、春になるとあちこちで満開になる桜と同じように見えた」
白にもピンクにも見える花びらが、澄んだ海の水の中をゆらゆらと揺れて漂っていた。風に吹かれて落ちるのではなく、波の揺らめきに流されて漂う花びらは、海底に落ちるまでの時間がとても長い。
水の流れにたゆたって、右にゆらゆら、左にゆらゆら、クラゲも一緒に踊っていた。
私は満開の桜を見上げながら、周囲を漂う花びらと戯れて遊んだ。
「桜は海の底には咲かないと思うけれど」
夫はごく当たり前の回答をしてみせた。私は「そうね」と笑ってお花見弁当の中身を詰めていく。
夫の好きな甘い卵焼き、タコさんウィンナー。彩りのミニトマトとブロッコリー。おにぎりは色んな種類のものをたくさん。唐揚げにはこだわりがあるんだ、といって夫が一生懸命に作った唐揚げも詰めて、桜を見に行くための準備が滞りなく進んでいく。
フルーツサンドもデザートに入れようね、とイチゴをスライス。二人でこんなに食べたらお腹がはちきれてしまいそう。
「それに人は、海の中では息ができないよ」
夫はまだ一生懸命さっきの話を否定しようとしてくる。
「そうね。でも、不思議と苦しくなかったの」
そこには私の手を取ってくれる人がいて、私に何かの力を分けてくれたのか、水の中にいるというのに一向に苦しくは感じなかった。
水の中の花びらはひらひらとは散らずにゆらゆらと漂う。その景色がいつまで経っても忘れられない。何年経っても抱いていられる特別な光景。
繋いだ手の暖かさも、桜のてっぺんまで泳いで行こうとする私を心配げに見つめてくる瞳も、忘れようとしても忘れられないのだ。
「きっと夢だったんだよ」
現実主義者ぶって夫は言う。私は決して忘れないというのに。
あれはたしかに夢の中をふわふわと歩むような経験だった。そのまま「これは夢だよ」と言い聞かされてしまえばうっかり納得してしまいそうな幻想的な時間。
お弁当を詰め終えて荷物を持つと、「さあ、行こう」と先に靴を履き終えた夫が手を伸ばしてきた。
この手の感触もぬくもりも、私は忘れてはいないというのに、夫はもう私がそんなこと忘れているものと信じきって安心している。
「きっと夢だったのね」
と、私が先ほどの会話の続きをそうやって締めくくってみせれば、夫は満足して笑う。可愛い人。
地上の桜も美しいのよ、と海の底で私は彼に語ってみせた。青空のもとで咲き誇る桜をあなたにも見せてあげたいな、と。
たとえば夫はもとは海の住人だった。それこそ人魚とか、そんなたぐいの。
とある事情でたまたま海に沈んだ私を助けた彼は、水の中でも苦しくならないようにしてくれて、海底の世界を案内してくれたというわけだ。
見も知らぬ、種族も違うだろう他人を何の思惑もなく助けてくれるシンプルな優しさに、私はひどく救われた。
そして見せてもらった海底の美しい桜吹雪。
――海にも春には桜が咲くのね。
私は感動しきりで、彼とたくさん笑いあった。
地上の桜の話をする頃にはたがいの恋心は育っていて、彼は地上に行くよと言ってくれたのだろう。
そのあたりは、詳しく憶えていなくて曖昧。何せ記憶を朧にする真珠を飲まされてしまったものだから。
だけど私は憶えている。繋いだ手の感触も、私を心配げに見つめてくる優しい瞳も。
人魚の存在は地上の人間に知られてはいけない。
大丈夫、心得ているわ。昔むかしの物語でも、きっとそういう風に決まっていた。
だから私は夫の「それはきっと夢だよ」に「そうね、きっと夢ね」とあっさり返して今日も彼の安堵する笑顔を守ってあげる。
「見て、ちょうど満開」
目的地の公園に着くと、晴れ渡った青空のもと、たくさんの桜が咲き誇っていた。ひらひらと舞う花びらに心が躍って、お弁当を持ったままくるくると回る。夫はそんな私を見て「君はずっと変わらないな」と笑う。
「羽根があったら木のてっぺんまで飛んで行ってしまいそうだ」
尾びれがあったらあそこまで泳いで行きそうね? と心の中だけでふざけて返す。
夫がいつか秘密を明かせるようになったなら、また海の底の桜を見せに連れて行ってほしい。
海の世界を知る権利を得るのには何が必要だろう。人魚の長を説得するとか? 地上の宝を捧げるとか? 難しそうだけど、頑張ろう。
今隣にいてくれるこの人が、隠しごともなくこれからもずっとそばにいてくれることが何よりの願い。
私は夫の肩に頭を乗せながら、海の桜の幻影を、地上の桜に重ねてうっとりと見入った。
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