忘れられない季節

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 ピンポンという呼び鈴の音とやかましい足音がした。そして、予感がした。誰かが俺を呼びに来たっていう予感。  俺は引きこもりだから、ドアを開けないだろう。いつもそうだ。この施設で世話してもらってずっと引きこもってる。働かないで飯食って、世話するやつ以外は部屋には入れない。でも今日は居留守できなかったんだ。なんでか分からないけど、固く閉じたドアを開けちまった。  ドアの前には女が立っていた。何もないのに楽しそうにしている女。馬鹿みたいな女だと思った。  「はじめまして!隣の部屋に引っ越して来た加藤美季です。好きな食べ物は、ラズベリージャムをかけた食パン。好きな季節は春で、好きな……」 能天気なふわふわした女が自己紹介を続けた。 「お前のことなんて聞いてねぇよ!」 俺は久しぶりに世話人以外と話して、動揺していた。 「そんなに怒らないでよ……一緒に外で遊ぼう!」 「俺はずっと外に出ない!隣に来たとか関係ねぇから、俺を放っておいてくれ!」 「関係ないなんてことないよ。ご近所同士仲良くしないと。ほら、もう春が来たよ」 「は?だからどうした?信じねぇよ。部屋にこもってれば季節なんて関係ねぇんだよ」 「でも、虫さんも外に出てきたんだから、いつまでも冬眠してないで、外に出ないと」 「俺は、虫が嫌いなんだよ! ーーって虫が部屋に入っててきたじゃねえか!俺は虫が嫌いなんだ……」 大事なことだから2回言っちまった……蝿が部屋に入ってきて、不快だ。こいつのせいだ…… 「さあ外に行きましょう」 春に浮かれた馬鹿女に連れられて、俺は数年ぶりに外に出た。  緑の茂った裏庭に連れられた。久しぶりの太陽が眩しい…… 「まだ、寒ぃよ。春が来たなんて信じねぇ」 「でも、モンシロチョウが飛んでるよ。楽しそう」 美季は蝶々と戯れている。彼女はピンクのスカートに白いブラウスを着て、身なりを整えていて、よく見ると幼なげだが整った顔をしていた。それに比べて、俺はヒゲだらけで伸び切った髪が汚らしいんだろうなと自分の身だしなみを振り返って、外にいるのがいたたまれなくなった。 「もういいだろ。帰るぞ」 「ええー。まだ、10分も経ってないよ」 「外に出ただけで十分だ」 「ちょっと待ってよ!私一人じゃ帰れないの」 この女は自分から俺を引っ張り出しておいて何を言ってるんだろうか。 「あれ?ここどこだっけ?ママ!パパ!助けて」 「急にどうしたんだよ、お前……」 美季は急にパニックになった。俺が呆然としていると、ヘルパーが急いでやって来て美季に語りかけた。 「加藤さん。外に出ては行けないと言ったじゃないですか!さあ帰りますよ」 助けに来たヘルパーを制止して美季は俺に呼びかけた。 「待って!私、あなたのこと忘れないから!名前なんていうの?」 「俺は……直哉……」 照れくさい。下の名前だけ名乗った。しかし、なんでこんな時に、名前を……? 「……なおや!?名前だけでも覚えておかないと……直哉……!?そうだ、あなたは、直哉だ……!」 そう言うと彼女は、びっしりと書き込まれたメモ帳に何か書き込んでいた。  後で聞いた話によると、美季は両親が事故に遭って身寄りもなくなった上に、元々記憶の障害があったので一人で暮らせなくなって、この施設に来たという。彼女は病院に入院することになった。俺も、また引きこもる日々が続いた。  ーーピンポンという呼び鈴の音……やかましい足音……そして、予感がした。また、俺を呼ぶ人がいるっていう予感。 「はじめまして!隣の部屋に引っ越して来た加藤美季です。好きな食べ物は、ラズベリージャムをかけた食パン……」 「なんだ。俺のこと忘れてるじゃねぇか……」 俺が呆れていると、彼女は徐にメモ帳を取り出した。 「あなたが、もし直哉くんなら、記憶を失くしてしまう私も本当は覚えている……このメモ帳に書いたの……あなたと過ごした楽しい日々を」 「は……?」 「だって、そうじゃない?記憶を失くしても遊んだのは事実でしょ?子供の時から」 俺たちは既に成人していた。子供の頃の美季と会ったことなんて覚えてない。 「同じ病院に通っていたんだよ。私たち。全部日記に書いてるんだ。直哉と遊んだことを。ほら……」 ひらがなだらけの幼い文字から段々と大人びた字になっていく日記……そこに、ところどころ俺と遊んだ記録が書かれていた。 「また、子供の頃のように、外で遊ぼう!きっと私たちよくなるよ!」  美季はそういうと、太陽の下に俺を連れ出した。部屋の外では、いつも、季節が巡っていた。  向日葵の咲く庭にアゲハ蝶がヒラヒラと舞い遊ぶ。彼女は記憶を保てなくても、すべての瞬間、すべての季節を愛しているという。儚い今しか生きられないとしても、精一杯、季節を抱きしめるように彼女は、はしゃいでいた。俺は、暑くて眩しすぎる陽射しの中で、青い空の広がる夏が来たことを確かに感じた。
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