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──「全部嘘なんだろう?」と男は言った。女はその鬼気迫る表情に緊張から空気を嚥下しながら、その目をしっかりと見つめ返した。まなじりが吊り上がり、形のいい眉を限界まで寄せて、声を荒げるのをすんでのところで堪えているさまは本当に怖い。体格差も相まって気を抜いたら胸ぐらを掴まれそうだ。
「嘘だよ」と女は言おうとした。「話した怪談はすべてウソ、今日が何の日か忘れたの?」と──だが、その時。昏い影が男の周りを靄のように取り囲んだ。
「──」ぞぞぞ、と。音にもならぬ音を立てて靄は男の肌を這い回る。肌の微細なおうとつを撫でて、引っ掻いて、男の周りを這い回る。
「──ひっ」女はたまらず短い悲鳴を上げて息を呑んだ。背筋に怖気が走り、指先が恐怖で冷たくなっていく。その靄は次第に髪の長い人の形をとっていく。
秒針が時を刻む音が聞こえる、きこえる。
硬質な音が鼓膜に届く。しかし、ただ、それ以上に。男の肌を這い回る靄がおそろしかった。
男は自らの怒りに気圧されたと思ったのだろう。態度を和らげて女の顔を覗き込み、頭を撫でようとした。
今日が何の日かはもちろん知らぬはずはない。大人げない態度をとってしまったことを恥じ、仲直りの意思を持って頭を撫でようとした。
──「悪かったよ。今日はエイプリルフールだもんな、あの怪談も全部作り話だったんだろ?」
男はもう怒ってはいない。だが女の表情は固まったまま動かない。歯の根は合わず、がちがちと不規則な音を立てる。視線は一点を見つめたままだ。
男はその意味が理解できずに、首を傾げた。
二人の横で、秒針が時を刻む。
かちかち、かちかち、かちかち。
「おい、なぁ。なんでそんなに──」
男は疑問を呈そうとした。あまりに怯えた女の様子に罪悪感を上回る不思議さを覚えたからだ。──女はその言葉にだんだんと目を潤ませ、噛み締めた奥歯を軋らせながら、両手を突き出して男を跳ね除けた。
「──な、」
女は一声、鋭く叫んだ。
「逃げて!」
次の瞬間。
『ジかン切レ』
「──!!」
──ざらりとしたノイズを含んだ声が耳元で聞こえた。ノイズ混じりの声は聞き取りづらさが大きかったにも関わらず楽しげに歪み、黒板を爪で引っ掻くような独特の不快感を与えてくる。一瞬にして二の腕に鳥肌が立った。
時間切れ。その言葉に急いで投げた視線の先、震える女の向こう側に時計が見える。
十二時五分。
その時、「そういうことか」と腑に落ちた。
女は男に怪談を語る時に言っていた。
稀に、ごく稀に。四月一日に種明かしの機を逃した嘘は芽吹いて花が咲き、真の実をつけるのだと。
『優しい人は疲れやすいし憑かれやすい、生きた人間だけでなくそれ以外のものも引き寄せてしまう。寄り集まった思いはその人間を取り合ってぼろぼろにしてしまうのだ』と、さきほど女は言っていた。
ぼろぼろにしてしまう、が。これか。
指先の感覚が無くなってきたことに気付いて手のひらを見ると、徐々に爪の端から黒い靄に喰われていく。その侵食は呆然としている間に指、手のひら、手首へと進み、肘までぐずりと崩れて掻き消えた。
欠けていく視界のなかで、女は泣いている。
頬に爪を立てながら「こんなはずじゃなかった」「ごめんなさい」「ごめんなさい」「どうして」「ごめんなさい」と繰り返し呟いている。
ぐずぐずと、輪郭が靄に食われていく。
女は泣いている。役を成しているかも分からない耳をそばだてて言葉を聞くと、崩れゆく意識の最後に小さなひとことが聞こえた。
『連れて行くはずじゃなかったの、ごめんなさい』
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