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壱
――叶うなら、その涙を。
ぱた、ぱた。
畳の上で雫が跳ねる。
その微かな音に眠りの淵から戻ってきた淡霞(あわかすみ)はそっと瞼を持ち上げて、ひゅっと息を呑んだ。
何者かが自分を見下ろしている。
その姿は明確には見えない。
閉ざされた部屋に窓はなく、明かりもない。
襖の隙間から僅かに差し込む月明かりが、ぼんやりと人型を浮かび上がらせるだけ。
(信彦(のぶひこ)……!)
この家で唯一信頼できる臣下の名前を叫ぶ。
けれど口から出たのは震えた吐息だけ。
僅かながら見鬼の才を持って生まれた淡霞には人には見えないものが見える。
それらは陰陽師が妖や霊と呼ぶもので、祓魔の術を持つ彼らに対抗手段はあるけれど。
地方貴族の姫に過ぎない淡霞には、到底太刀打ちできるものではなかった。
ぱた。
淡霞の頬に雫が落ちる。
それが何なのか淡霞には分からない。分からないけれど。
触れた頬は音を立てて焼けただれ、耐えがたい激痛に、悲鳴が夜の静寂を引き裂いて――。
そんな恐怖が頭を過り、刹那に霧散した。
ぽろぽろと、淡霞の目じりから涙が溢れ出る。
(どうして、泣いているの……?)
とめどなく溢れる透明な雫と共に、胸の内からそんな言葉が湧き出た。
それは自分に対しての疑問だったのか、己を見下ろす何者かへの問いだったのか、淡霞には分からない。
ただどうしようもなく胸が苦しくて、切なくて、悲しくて。
肺が締め付けられたかのように呼吸がままならず、鼻の奥が痛み。
泣かないでと、その嘆きをこの手で拭ってあげたかった。
「姫様!」
ハッと淡霞が目を開くと、不安そうにこちらを覗き込む信彦の姿があった。
本来、女性の床に臣下とはいえ男性の信彦が立ち入るのは不徳も甚だしい。
けれどそれを指摘するものはこの屋敷にはいない。
淡霞はそっと周囲を見回した。
もう朝日が昇っている。
あれは全て、夢だったのだろうか。
不思議なものを見てしまったと目元に手を当てて息を止める。
誰かの嘆きが、その指先を濡らしていた。
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