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夜のにおい。嗅ぐのは久しぶりだ。
深夜、人影ない公園にひとり。ブランコに腰掛けて空を仰ぐ。
街灯に照らされた桜は満開で、明るい時間に優弥と来られたら嬉しいのにとアヤは思った。
苦手だけどお料理頑張ってお弁当作ってピクニック。優弥は喜んでくれるかな。そんなことをふと思い笑みを浮かべる。
優弥と結婚する。夕方プロポーズされた。
アヤのことを考えたら結婚して俺がお前を守っていくしかないと思った。
そう言ってくれた。嬉し泣きなんて多分生まれて初めての経験だ。
「何で泣くの?」
困ったように尋ねる優弥の肩に顔を預けアヤは一頻り泣いた。優弥の温もりが好きだ。他の誰からも得られない安心感が優弥にはある。
すき
感情を露にすることを優弥は嫌がらない。アヤが好意を示せば優弥もそれに応えてくれる。
初めて肌を重ねた日、優弥の肩や背中を冷たく感じてアヤは、自分の腕や胸で絶えず温めた。いつか自分の温もりが優弥に伝わり彼の肌も温もりを帯びたらいい。まとわりつくから嫌がられたけれど、それでもアヤは止めなかった。
すき
その時は顔を顰められたけれど今はもう大丈夫。優弥はアヤを奥さんにすると言ってくれたのだから。
桜の花弁が1枚、アヤの膝に降りる。スカートの上のそれをそっと摘まみ、薄暗い中葉脈を確かめようとする。暫く目を凝らし見つけられないと気付き花弁を解き放つまで、どれほどの時が過ぎただろう。
再び満開の桜を眺め、これからは優弥のためだけに生きると心に誓う。仕事の話をしたら優弥は嫌がった。優弥が嫌がることは私も嫌。アヤは急に深い悲しみに襲われ、両手で顔を覆う。
優弥を傷付ける人を許さない。傷付ける行為を許さない。
傷付けたのが自分なのなら、いつかカオルと上がった高いビルの屋上から飛び降りてやる。けれどそれをやってしまったらもう優弥に会えなくなることに気付き、混乱してしまう。優弥のための人生を歩むと決めたのだから、死ぬわけにはいかないのに。
どうしてこうバカなんだろう。
すぐ死ぬとか消えるとか言ってカオルを困らせて、沖島さんに怒られて。もうあの2人に会うこともないのだけれど、自分の欠点はあの2人がいつも言っていた
「そのうわーってなる感じ、どうにかしろ」
という忠告に課題があるように感じるのだ。それは多分本能が訴えるもの。うわーっとならずに優弥に愛される奥さんとして、おばあちゃんになるまで生きていくためにまず何をすればいいのだろう。チェーンに両腕を回し足を組む。顎を傾け物思いに耽る。
誰もいない公園。桜の木を夜風が撫で葉のさざめきが耳を掠める。優弥が眠る2人の部屋に戻るまでに、答えを出さねばならない気がして。
「私、片山のおじちゃんは好きだった」
お母さんに打ち明けたのはいつだっけ。来年の受験に向けて同級生が塾や家庭教師に頼り、勉強とやらに励む最中、アヤは母親との関係がこじれ切ってしまったことに心を悩ませていた。
お母さんはとても綺麗で男の人にすぐ好かれて、だからすぐ知らないおじさんがお父さんになるのだけれど、アヤはその中でも小学生になってすぐの頃一緒に暮らすようになった、「片山のおじちゃん」を気に入っていた。
おじちゃんは見た目ちょっと怖いけれど、でもお話しするととても優しくてアヤを可愛がってくれた。おもちゃのプレゼントやお寿司をご馳走してくれる、数少ない知らないおじさんの中で唯一「お父さん」にならなかった人だ。片山のおじちゃんは振り返るに1年ほど共に暮らした。音も立てずいなくなってしまって、アヤはかなり困惑したことが忘れられない。母親は何でもないって顔で片山のおじちゃんがいない部屋で化粧して、いつもの時間お店に向かう。お化粧のにおいも香水のにおいもアヤは嫌いだ。お母さんと離れることを暗示するものだから。でもお母さんは
「そんなこと言ったってしょうがないでしょ。あんた食べさせなきゃいけないんだから」
と迷惑そうに頭を振り、嫌そうに顔を顰め家を出てしまう。ひとりぼっちになったアヤは片山のおじちゃんを思い出して泣いた。お母さんがいない夜、他のお父さんたちはアヤに目もくれなくても、片山のおじちゃんだけはたまに帰ってきてくれて、一緒に食事してテレビ観てお風呂に入れてくれて。
今でもはっきり覚えている。両頬に筋が入った目鼻立ちのはっきりした顔。眉毛が濃くて唇が薄くて。
「この人モテるのよ」
母親の誇らしげな一言も耳を離れない。
どうしていなくなっちゃったのかな。
片山のおじちゃんもお母さんもいない部屋で過ごすひとりの時間は、やたら長くて怖くて嫌で、泣きながら外に出たら近所の気の好いおばちゃんが声かけてくれて助かったんだけど、お母さんが怒って。
「お前のせいでサツの世話になっちまったじゃねぇかよ。クソガキが!どう責任とってくれんだ!!」
こう言われるとアヤは心底困ってしまう。自分が悪いとまず思うし、ごめんなさいと何度誤っても許してもらえないし、責任取れと言われてもどうすればいいのか分からないし。
泣いたら余計怒られるから泣けないし
「もう外に行かないから」
と怯えながら言っても平手が飛んでくるだけだし。
片山のおじちゃんがいた頃のお母さんは割と落ち着いていた。メチャクチャ怒られることはなかった。突き飛ばされたり蹴られたりしても、片山のおじちゃんが庇ってくれたから平気だった。
何年か経つうちに「お父さん」から触られるようになった。二の腕とか喉元なんかはまだいいとして、胸や太腿を掴まれたなら
「いやっ!」
その手を振り解いて外に逃げた。何かされると強く感じた。あの人とは絶対嫌だと痛感する、何か。あるお父さんは「参ったな。誤解だよ」と宥めるし、あるお父さんは
「お前ふざけんなよ!恥かかせやがって!!」
怒鳴りながらアヤを追いかける。近所の人はもう誰も助けてくれない。みんな見て見ぬふりしているのが分かる。助けて!助けて!!って叫んでも意味はないと分かっていても、叫ばずにいられない。だって怖いんだもの。
お母さんの
「一生にひとりだけ。この男に決めた!」
という人が家に来たのはアヤが14歳になった日なのだけれど、新しいお父さんはアヤを好いた。母親が仕事で家を空ける時間必ずやってきて、他愛ない話をされる。コミュニケーションを図りたいのだろうと、一応相手をしてみた。お父さんの話は眠くなるくらいつまらなくて、いつも「あー」とか「ふーん」とかどうでもいい反応を示したのだけれど、それをどんな風に誤解したのだろう?2カ月も経たないある日不意に手を握られ、驚いて振り払おうとした瞬間、嫌な体温が伝わった。ギャーと叫んで頬や耳に噛みつき、隙をついて家から逃げ出した。「助けて!」なんて叫ばなかった。誰も助けてくれないんだし。走って走って走り抜いて繁華街近くのバス停に辿り着いて、靴を履いてないことに気付いて。しょうがなくベンチに腰掛け、夜明けまでここで過ごそうと思った。明るくなったらお父さんは仕事に行くし、学校は休んでお母さんに話を聞いてもらえそうならあの出来事を話そうと。
「アヤ?」
背後で声がしてその主がカオルと気付くまでの間、泣く準備をしていたと疑われてもおかしくないくらい、不安を募らせていたのだそうだ。後日カオルに聞かされた。
靴下はあちこち穴が開いていて
「仕方ないなぁ」
とカオルはアヤをおぶってくれた。
「いいよ。重いよ」
「うん、重いね」
カオルの体力に限界が来ると下ろされ、カオルの靴に足を載せるよう勧められ。悪いからいいと断るアヤに
「普段ならほっとくけど、あんた相当ひどい顔してるよ」
小学校の同級生。と言ってもカオルは5年の夏休み明けから姿を見せなくて、卒業式にも出なかった。初めこそ噂されたカオルのあれこれもその頃には誰も口にしなくなっていて、卒業証書を担任が預かっているのに気付いたアヤは
「先生、それ私が持って行く」
と提案したのだった。先生もカオルの顔が見たいと言って、カオルの自宅まで連れ立って歩いた。初めて親しく会話する担任はとても優しく思いやりのある人で、アヤのことも詳しく知っていた。母親のいう「典型的な公務員」とは、かけ離れているように感じたものだ。
自宅は誰もいなくて卒業証書は先生が持ち帰り、後日届けに行くとなったのだけれど帰り道、まだ先生と話していたくてアヤは小学校まで先生の跡をついていった。その姿をカオルは部屋から見ていたらしい。
「いたなら出てくれればよかったじゃん」
中学1年のゴールデンウィーク。スマホを持たされていないアヤに連絡とるのに、凄く手間がかかると笑いながら自宅にやってきたカオルを家にあげ、話す間にそんな事実を知った。
「だってめんどいじゃん。先生いたし」
「先生凄くいい人だったよ」
「それは知ってる」
カオルがそのまま黙り込んでしまったのでアヤもそれ以上口を開かなかった。そう親しくはなかったカオルと、打ち解けることができたのは間違いなくこの訪問を受けてからなのだけれど、カオルがとても大人びていて普段どんな暮らしぶりでいるのかを知り、アヤは自分を鼓舞するのだった。
「お母さん、家出るって」
「そうなの?」
「家賃とかどうしよ」
「稼がなきゃさ」
カオルに誘われ知らぬ世界に足を踏み入れる。不思議と怖くはなかった。「お父さん」は嫌で堪らなかったのに、知らないおじさんは平気でいられるのが不思議だった。触れられ穢され。同じことなのに。
母親の荷物が部屋から消えてすぐ、アヤも家を出た。カオルの恋人は40過ぎのおじさんで、会社をいくつも経営している実業家と教えられた。色黒で短髪、常にサングラスをかけていて「いかにも」といった雰囲気を纏っていたが、カオルの親友であるアヤには何かと親切にしてくれた。
家を出たと聞けばアヤのためにワンルームの部屋を借りてくれた。
「うちの寮ってことで頼むね」
沖島と名乗るその人の言うことを理解できないことは多かったが
「分かりました」
と答えさえすればあとはカオルが上手く調整してくれた。「寮費」は光熱費も含め沖島がもってくれるという好待遇。カオルから連絡が入れば指定された場所へ行き、客と会う。すぐに宿泊施設に連れ込む人もいればカフェでお喋りを楽しんだ後に、という人もいる。急ぐ人は身なりが雑で遊ばせてくれる人は、それなりのものを身に着けていて。アヤはおじさん達の違いを楽しんだ。優しい人も中にはいるけれど「大人は立派だ」と、微塵も思わない。
「世の中クズばっか」
クラブ帰り2人で上った高いビル。非常階段から屋上に出られる非常口は施錠していなくて、アヤはカオルと一面に広がる曇り空を眺めた。雲の切れ間から零れる星が美しい。耳元を掠めたカオルの言葉に沖島の姿を見た。けれど聞こえないふりをした。聞いてほしい話をするときの口ぶりと、違うような気がして。うん、と背伸びして
「眠いわ」
アヤの幼さをカオルは笑う。ケタケタとさも愉快そうに。
こうやって互いを何度欺いてきたろう。とても大切な存在に違いないのだけれど。
仕事帰り通りかかった自販機の前。ずらっと並んだジュースに見向きもせずアヤは寮に向かった。カオルと遊びに行くのもごくたまにのことで金遣いが荒いわけでもなかったから、仕事を始めて2ヶ月もする頃にはそこそこの額を銀行口座に放っていた。
堅実な生き方に憧れる気持ちがあったのかも知れない。母親に対する嫌悪感は親元を離れて少し経った頃から明確に抱いていた。
夜の帳が降りる頃、帰宅してからの予定を考えながら歩く。前日の雨で自販機の辺りはぬかるみ、水たまりができている。
不意に肩を掴まれギョッとする。反射的に振り返りその人を凝視する。時折行き過ぎる車のライトに浮かぶ横顔はナイフのような冷たさを帯びていた。
「何?」
言葉が口をついて出る頃には既にありったけの警戒心を瞳に込めていた。優しく大人しかったアヤはもう、滅多なことでは表に顔を出さない。
男だった。見たところアヤより若干年嵩の。
「何?って。覚えてない?」
ナンパという雰囲気でもない。本当にアヤの記憶に訴えているように見える。けれどアヤには全く覚えのない顔だ。
「覚えてない」
突慳貪に言い放ち男を置き去りにする。
商売相手ならともかく、そうじゃないなら極力他人と関わりたくない。心の中を枯れた砂が埋め尽くす。関わるのも関わられるのも本当に嫌。嫌でたまらない。けれど男は諦めなかった。
「いや、俺だって」
「うるさいな!」
思いの外大きな声が出てしまってアヤは戸惑う。男は困ったように眉根を寄せ
「先週一緒に飲んだじゃん」
言われ改めて顔を見る。じっと。
カオルのけたたましい笑い声に何度も弾かれた。
「嘘でしょ?」
「本気で言ってる?」
「マジなの?」
同じことをあとどれだけ繰り返せば気が済むのだろう。
先週カオルと遊びに行ったクラブで話し込んだ男がいた。やたら話が合いアヤの欲しい答えを不思議と男は口にし、男が期待する反応をアヤは示すようだった。楽しい時間を過ごしたはずの記憶はアヤの頭からすっぽり抜け落ち、男の記憶にアヤはしっかり留まっていた。
「次会ったら『ソウタ』って呼んでやんな。喜ぶよ」
仕事だといって出て行くカオルはアヤにそう言い残した。
「ソウタ」と名を口にし覚えたことを自覚した。
ソウタは日雇いのバイトで食いつないでいると話した。お金に困っているのかなとアヤはふと思った。
寮を出てソウタと暮らすとカオルに打ち明けたとき、カオルは少し心配そうに顔を曇らせた。
「騙されてない?」
大丈夫、とアヤは答えた。ソウタは気骨のある男だと疑わない。
自販機前で再会してから何度かソウタと会った。話す度に心解かれ奪われ。ソウタと一緒にいたいと願った。
「んじゃ、一緒に住む?」
軽いと思わなかった。寧ろ未来を感じさえした。
ソウタの傍にいたい。ソウタといたい。
「なんかあったらすぐ連絡しなね。私が行けないときはうちの走らせるから」
カオルはいつも優しい。頼りがいがいあるのに威張らない。頼りっぱなしのアヤが去ろうとするのに、アヤを心配してばかりだ。
「どうせ毎日会うのに。話たいことがあるときは言うから聞いてね」
仕事を辞めるつもりは毛頭なかった。カオルも言及しなかった。続けたいなら続ければいい。トラブルを起こすなどしなければカオルも沖島も誰にも寛容だった。
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