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「あー! 水泳ってどうしてこんな難しいの!?」
プールの水をパシャパシャと叩きながらセシルが声を上げた。
プールサイドでオレンジジュースを飲んでいたアンナは額に手を当てて、はああと大きくため息をつく。
「水泳は体で覚えるものよ。肌に悪いからってずっと避けてきたあなたが、一朝一夕でできるわけないじゃない」
「そんな冷たいこと言わないでアンナちゃん、コツ教えてよ〜!」
アンナはやれやれと腰に手をかけながら、水の中のセシルを見下ろした。
「水の流れに身を任せるのよ。今日は浮く練習ができれば御の字じゃない?」
「ダメ! そんなペースじゃあ試験まで間に合わない」
セシルは深呼吸して肺に空気を溜めると、手を動かして体を浮かせたが、ずっぽんと沈んだ。
試験科目に水泳があることはセシルも知っていた。
しかし、今までの座学と同じように集中学習すればすぐにものにできるという自信があった。それなのに現実は残酷なものだ。
「はぁ、時間がないのに……へぁ!?」
顔を上げたセシルの目の前に、なぜか素知らぬ男子生徒がいた。プールサイドに座って、セシルをニコニコと見下ろしている。
「こんにちーーうわわぁ!?」
セシルは彼の襟元を反射的に引ったくると、一思いに背負い投げした。ちゃぶっと派手な音を立てて、男子生徒がプールの中に落ちる。
「ど、どなた!?」
「投げる前に聞いてー!」
起き上がった男子生徒の声が周囲にこだました。
◇◇◇◇◇◇
「ごほん。改めて自己紹介するね。俺はウォルター。同じクラスだから、一応顔は見たね?」
「ええ。セシルよ。さっきは驚いて失礼したわ」
プールの中に立ち、ずぶ濡れのまま2人は握手を交わした。
水着のセシルはともかくして、ウォルターは制服だ。アンナは困ったように言った。
「とりあえず、水から上がってはどう?」
「ああ、もう濡れたし大丈夫。俺はセシルちゃんと話したいし」
「……セシルちゃん」
「馴れ馴れしい? ダメ?」
ウォルターは自分の人差し指の指先を突き合わせて、上目遣いでセシルの顔をみた。
「……別に、構わなくてよ」
セシルはクラスで自己紹介した人の名前と顔をほぼ全員覚えている。ウォルターは2限になってから入ってきたので、名前は今知ったばかりだ。
とんでもない変人なのかもしれない。セシルは心の中にそう潜めながら、外向きの完璧な笑顔で応対した。
「それでそれで! セシルちゃんはここで何やってんの?」
「水泳の練習よ」
「必修科目にあるあの水泳を? あんなに手足をバタバタさせて?」
ウォルターはわざとらしく口を押さえた。
「あれれ〜? アーサーの記録を塗り替えると言ったセシルちゃんがぁ、まさかのカナヅチぃ?」
「ぎく……ふ、ふん! なに? すぐにマスターしてみせるわ」
強がるセシルを見て、アンナは大きくため息をこぼした。
「それで何時間もやってるけれど、浮くことすらできないのよ、この子」
「うわアンナちゃん、やめて! 傷口に塩塗りたくらないで!」
「ぷぷっ!」
涙目のセシルの側で、ウォルターが腹を抱えて笑い出した。
「ぷは、ぷははははは! 全校生の前で豪言したのに、本当に泳げないの? おもしろ!」
「はいはい、好きなだけ笑ってなさい」
両腕を組んで、セシルはソッポを向いた。
「今年できなくても、来年必ずできるようにしてみせるわ」
「ふぅん、本気なんだね」
「当然よ。負けてられないわ、あんなやつに……」
セシルの顔をしばらく見つめると、ウォルターは面白げに笑った。
「じゃあ、俺が手伝うよ」
「え?」
「俺、水泳うまいから」
ウォルターは自分を指差してニッコリと笑った。
「そうじゃなくて、どうしてあなたが?」
「面白そうだから。……おや、くんくん、空気中に懐疑の匂いがするねぇ! 俺の実力を信じてないでしょ?」
「信じる信じない以前の問題でしょ」
「じゃあ見て確かめなよ」
いうが早いか、ウォルターはワイシャツを脱ぎプールサイドへ投げ捨てた。
「ち、ちょっと! どうして脱ぐのよ!」
「こっちの方が泳ぎやすいから」
唖然とするセシルを見るなり、ウォルターは自分の胸を抱いてもじもじと肩を動かせた。
「こらこら、セシルちゃん。俺の胸じゃなくて、見て欲しいのは泳ぎの方だよ」
「勘違いするはずないわ!」
「あら残念」
にひひっといたずらっ子のように笑うと、ウォルターは長い赤髪をかきあげて、ゴムで留めた。
水泳が得意と言ったのはおそらく本当だろう。ウォルターの上半身の筋肉が隆々と膨らんでいる。そしてスタート台に立つ彼の横顔は、意外にも真剣な目をしていた。
ウォルターが水の中に飛び込んだ。そして2分もしないうちに1タンしてきた。
「ぷっはぁ! ……どう? すごいだろ」
予想以上の凄ぶりに、セシルは目をキラキラさせた。
「うん、うん! すごい! 速い! ウォルターはプロなの、プロでしょ!」
「まだ学生! つーか同級生!」
あははとしばらく笑うと、ウォルターはプールサイドに肘をかけて、足をバタバタさせた。
「世界レベルの人たちはもっともっと速いよ。俺は毛が生えたくらい」
「そうなの? 十分迫力あったけど」
セシルもウォルターを真似して足をバタバタさせた。
「おう? セシルちゃん筋がいいじゃん。これでなんで浮かなかったの?」
「アンナの教え方が悪いのかしらね」
「ちょっと、まだここにいるわよ」
アンナに睨まれて、セシルはベェと舌を出した。その時、柵で隔たれた向こう側にアーサーがいるのに気づいた。
「やぁ、アーサー! 敵情視察かな?」
ウォルターがプールから身体を引き上げて、ぶんぶんと手を振る。しかし返事したのはアーサーではなく、その隣のダミアンだった。
「ウォルター、制服のまま何をしているんだい?」
「やぁ、ダミアン兄ぃもいたんだね。てか、ダミアン兄ぃがいるから、アーサーもいるのか」
「はぐらかすな、ウォルター。今日も一限をサボったそうじゃないか」
心なしかウォルターに向けたダミアンの声色が、視線が、すべてが冷たかった。
セシルの視線に気づいたのか、ダミアンは取り繕ったような困った笑みを浮かべた。
「弟が迷惑をかけたようですまないな、セシル嬢」
「おとうと……、あ。いいえ、迷惑ではありません」
セシルはウォルターにジト目を向けた。
自己紹介の時に家名を教えてくれない時から気づくべきだった。確かに名前は同じだったが、まさかオングレの第二王子がこんな軽い人だとは、セシルも思わなかったのである。
ウォルターは素知らぬふりで、ただ肩をすくめた。
「迷惑じゃないってさ! 俺は彼女のコーチだから」
ダミアンが怪訝そうな顔をした。
「コーチ?」
「うん。代わりにセシルちゃんがアルマン語教えてくれるってさ!」
「「え!?」」
セシルとアンナの声が同時に上がった。ウォルターはニコニコと笑ったまま続けた。
「ほら、セシルちゃんは6歳までアルマンに住んでたでしょ? ほぼ母国語じゃん。俺、第二言語苦手だからさ、等価交換でいいでしょ、ね?」
セシルがアルマンに住んでいたのは事実だが、外ではあまり知られていない。商人の令嬢が幼少期をどこで過ごしていたなど、誰も興味がないからだ。
セシルはウォルターをしばし見つめてから、ダミアンのほうに目を向けた。
「殿下の言うとおり、等価交換です」
ダミアンは眉間に深い皺を作ったまま、ウォルターを見下ろした。
「いつまでこんなことを続けるつもりだ、ウォルター。……とにかく、遊びもほどほどにしな」
セシルに敵意があっての言葉ではないが、真剣な学びを遊びと言われたことを、どうしても聞き捨てになれなかった。
「(あそび、と仰るのは?)」
セシルは流暢なアルマン語で問いかけた。
「(教科書ではスラングなど学べません。ウォルター様とは極めて真剣な授業をするつもりです)」
ダミアンはやや驚いた顔をしたが、
「(そうかい。君たちの良い成績を期待しているよ)」
美しいアルマン語でそう言い残すと、一言も発さなかったアーサーと共に去っていった。
その背後を見送るとウォルターはパチパチと手を叩いた。
「やっぱネイティブだね、セシルちゃん!」
セシルは目を細めて、ウォルターを睨んだ。
「聞きたいことたくさんありますけど、聞いても教えてくれないでしょうね」
「やだ、敬語なんてよそよそしい! いつもみたいに普通に喋ってよ」
「5分前に知り合ったばかりですけど! まぁいいわ」
兄弟仲が悪いことを隠したがるのは、貴族も庶民も同じなのだろう。セシルは一人っ子だから実体験ではないけれど、兄弟姉妹の関係は難しいことをよく知っている。
ウォルターの事情を知らないが、目下彼以上にいいコーチは見つからないだろう。セシルは意を固めて、ウォルターに手を差し伸べた。
「何を企んでいるのか分からないけれど、水泳はしっかり教えてもらうから、改めてよろしくね、ウォルター」
「ふふ、うん。物分かりがいいセシルちゃん。よろしくね」
ウォルターはニッコリと笑って、セシルの手を握り返した。
☆☆☆☆☆☆
少し離れたところで、ダミアンとアーサーは立ち止まった。
セシル達がいるプールのほうを振り返って、ダミアンが小さな笑みを作った。
「セシル・グリーンウッド。……予想以上に面白い令嬢だったね。なあ、アーサー?」
「さあ。ただの意地っ張りにも見えるが」
「ははっ! 手厳しいな。お前はもっと紳士的で優しいやつだと思ったよ。特に、過去の婚約者候補には、な?」
「!」
アーサーはやや驚いた様子を見せてから、困ったようにダミアンをみた。
「……調べたのか、ダミアン?」
「少し気になってね。でも心外だな。お前の婚約者候補のことは全部把握しているつもりだけど」
「気持ち悪い嘘つくな。気になるなら直接聞け」
「教えてくれるのか?」
「…………」
満面の笑みを浮かべるダミアン。
アーサーは小さく舌打ちをすると、気まずそうに自分の頭をガシガシと掻いた。
「……10年前、親同士から話はあったが、正式に婚約者候補になっていない。僕が、……断った」
「そう! それ! 婚約話の破棄は政治上の理由じゃない。気になるのがそこだよ、アーサー!」
ダミアンはパチンと指を鳴らすと、懐から数枚の羊皮氏を取り出した。
そしてそれを一枚一枚丁寧に捲りながら、ぽつりぽつりと呟いた。
「セシル・グリーンウッド。素行善良。幼少期より学業成績優秀。研究分野において受賞歴もあり……と、とても良い候補に見えるけどね? 調べた限りだと醜聞もないし」
「その人をすぐに調べ上げる癖はどうにかした方がいいぞ」
「抗議するなら父上にどうぞ。次期王として情報は勝利の鍵だと教え込まれたからね」
アーサーの冷たい視線を受けても、ダミアンは平気な様子で肩をすくめた。
「それで、本当の理由はなんだい? まさか、本当に外見とは言わないだろうね? 彼女はどう考えても綺麗な部類だ。それにお前の好みそうなタイプだろ? 彼女を見かける度お前の目が泳ぎっぱなしだ」
「…………な!」
アーサーが真っ赤になった。それをみて、ダミアンがクスクスと小さく笑った。
「長年の付き合いだ。お前の好みくらい、調べなくても分かる」
「………………うるさい」
「くくっ、照れるお前をイジるのも楽しいけど……、そろそろ理由が知りたいかな」
「……長年の付き合いなら、その理由も既に知っているだろ?」
「ふぅん。……アーサーは商人が嫌い、だったか?」
「嫌い。大嫌いだ。分かってるならもう聞くな。僕と彼女はあり得ない」
「……ふぅん」
アーサーの顔をジロジロとみて、ダミアンが面白そうに笑った。
「彼女は努力家で有名らしい。宣言のとおりお前の成績を塗り替えることに10ポンド」
「勝手に賭けるな。君は誰の友人だ」
「お前のだが、私情より合理的判断を優先しろという教えさ。ふふっ、アフターパティーでお前が彼女をエスコートする日が楽しみだよ、アーサー」
ニコニコとそう言ったダミアンに、アーサーは本日一番長いため息をこぼしてみせた。
そしてチラリとプールのほうを振り返ると、
「顔で婚約者を選ぶつもりはないし……」
やや赤い顔でぶつぶつそう独りごちりながら、アーサーはダミアンの後を追った。
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