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座学の授業がほぼ完璧なセシルは、放課後プールへ直行して練習を重ねた。
セシルは負けず嫌いなだけに、凄まじい努力家でもある。
毎日鬼のように水泳の練習を継続して、2ヶ月半も経てばそれなりにうまく泳げるようになっていた。
「さすがだね、セシルちゃん。いいコーチに恵まれてる〜」
プールサイドに座っているウォルターは、水に足を入れてパシャパシャと蹴った。
セシルはウォルターの近くまで泳いでくると、ペシっとその足を叩く。
「痛〜い! どうしてなのさ」
「(邪魔だから。それで、昨日の宿題はできて?)」
「発音綺麗すぎて聞き取れないよ〜」
「(約束は約束よ。あなたとはアルマン語でしか会話しないわ)」
「(先生、鬼、やだ〜!)」
拗ねたように頬を膨らませるウォルター。
セシルは呆れたようにため息をついた。
英才教育を受けたウォルターは元々アルマン語が話せた。ただ授業にはほとんど出ないため、文法が弱いのも事実。
ウォルターの気まぐれで始まったとはいえ、セシルは真剣に教えるという約束を守るつもりだ。ウォルターには毎日文法の宿題を出して、会話もアルマン語に徹底している。
ウォルターは嫌々言いながら、宿題はちゃんとやってくれる。しかし、本人は忙しいらしく、プールには30分も居ないで帰るのが常であった。
放課後のプールでセシルが一通り泳いだあと、日はすっかり沈んでしまった。いつもならアンナがいてくれるが、試験日が近いのもあって、寮で勉強している。
親に高い学費を出してもらっているのだ、成績上位は当然だと期待されている。もちろん、セシルとて同じことなのだが、本人は水泳さえ高得点を取れば学年一位は確定のようなもの。
中間試験まであと半月。
セシルは前より気合を入れて泳いだ。いつもなら帰る時間がとっくにすぎて、気づけば夜が更けていた。
季節は夏に移り始めたが、夜風はまだまだ冷たい。
セシルは厚手のタオルで身を包むと、寒そうに身震いした。
お湯を出せる魔素変換装置があればいいのだが、貴族学校の名残りがまだ強いこの学校では、最先端の技術を一切導入していない。
元々貴族でしか扱えない魔素を、技術の力で一般的に使用できるようにしたのが、魔素変換装置だ。貴族たちが多く在籍するこの学校では、すぐに導入できるはずもないだろう。
少し体を温めようと思ったセシルは、物置小屋に入った。
あまり使われていないのか、中は少し埃が溜まっている。セシルは目当ての暖炉の灰を掻き出して薪を入れると、火打金で火種を打ち出した。
セシルは筋肉痛に耐えて、寒さにも耐えて連日泳いだ。
当然体力を消耗し切っている。
暖かみが浸透する部屋の中で、パチパチと舞い踊る火の粉を眺めているうちに、セシルがウトウトと船を漕ぎ始めた。その時、ガタンという大きな音がして、セシルが立ち上がる。
「ちょ、え?」
部屋に入ってきたのは、風紀委員の羽織を肩にかけたアーサーだった。
セシルが見えると、すぐさま厳しそうな顔を作った。
「なぜここで寝ている。火事になったらどうする?」
どうやら煙突の煙を見て確認しにきたらしい。
セシルはアーサーの羽織の下の私服を見て、つまらなさそうに言った。
「夜遅くまで勤勉ですこと。さすが風紀委員の鑑ですわ」
「僕に嫌味を言う元気があるなら、寮へ帰って寝るんだ」
「少し暖を取ったら出て行きますわ」
膝を抱いて座っているセシルをみて、アーサーは怪訝そうな顔をした。
「……失礼」
そう言ってセシルに近寄ると、アーサーは彼女の肩からタオルを引っぺがした。
「ちょっと、どういうおつもりで!?」
「それはこっちのセリフだ。なぜまだ水着を着ている。今は何時だと思う?」
「何時であろうと関係ありません。自主練は生徒の自由ではなくて?」
「限度がある! 君は無茶をしすぎだ」
アーサーはスポーツをよくやる大柄な男だ。そんな巨体に凄まれたら、いくら強気なセシルでも怯んでしまう。
「……ご安心くだされ。火の後始末はしっかりいたしますわ」
意固地になるセシルに、アーサーは大きくため息をこぼした。
「さっきまで寝息を立てていた君に任せられない。どうしてもと言うなら、僕が責任を持って見張ろう」
アーサーは入口付近の椅子を引っ張った。その上の灰を手ではたくと、ぶっきらぼうに腰を下ろした。
セシルはアーサーをチラリと見たが、気にしないフリして暖炉の火をじっと見た。しばらくすると静寂も苦しくなって、セシルは視線だけアーサーの方を向けた。
「……それは風紀委員として?」
「なにが?」
「私を見張ることです」
アーサーはやや困ったように眉をしかめて、暖炉の方をみた。
「君ではない。火を見張っているんだ」
「…………」
セシルは不満げにアーサーを睨むと、勢いよく立ち上がった。厚手のタオルがセシルの肩から木板に滑る落ちる。
「……そんなに醜いですの、私のこと?」
「…………っ」
セシルはアーサーが座っている椅子の前まで行くと、彼の顔に自分の顔を近づかせた。驚いて目を見張ったアーサーの視線は、吸い寄せられるようにセシルの白い肩や胸元を捉えてから、はっとしたように逸らした。
「……退いてくれるか?」
「質問に答えてくだされば」
セシルはアーサーの座る椅子の肘掛けに手をかけて退路を阻んでいる。礼儀正しいアーサーが未婚の淑女を押し退ける無作法などできるはずもない。
アーサーは困った顔をして、セシルの顔をみた。しかし、すぐさま顔を背けて、口を固く閉じた。
「答えるつもりはないのですね」
「…………」
「まあいいわ」
セシルはアーサーから数歩下がると、暖炉の熾火に灰をかけて消した。
そして床に落ちたタオルを拾うと、出口の前で足を止めた。
「あなたのような人に、負けてたまりますか」
まだ固まっているアーサーにそう言い残すと、セシルは再びプールの方へと向かっていった。
☆☆☆☆☆☆
「……って、どうしてついてくるんです!?」
プールサイドの椅子に座っているアーサーに向かって、セシルが叫んだ。
「君は疲れている。夜1人で事故に遭ったらいけないだろ?」
「心配ご無用です。こう見えて結構泳げていますから」
「君の実力を疑っていない。ただ風紀委員としてすべきことをするまでだ」
アーサーは上着の中から細い杖を取り出すと、ボソボソと何かを唱えた。
呼応するようにやわやわと蛍のような光の粒がアーサーの周囲に集まって、彼を発光させる。
「……まさか、魔法をなさるの?」
魔法は貴族専用の芸当だ。
魔素変換装置を使い慣れているセシルだが、お貴族様の魔法を見るのは片手で数えられる程度。
魔法は自然界に漂う魔素を操ることで様々な事象を起こす。
変換装置と同じように魔素をエネルギーに変えて使用するのだが、作動方法が違う。
「イグニット」
アーサーは杖を振り上げた。その先端に集まった光の球体が弧を描いて、プールの中に飛び込む。ぴかぁっとプールの底が光ったと思えば、たまゆらに消えた。
「なにを、なさったの……?」
「そう怪しんだ顔をするな。水を温めただけだ」
セシルは胡乱げな顔のまま、プールに手を入れた。確かに温かい。
「試験の前に風邪ひいたら嫌だろ? 僕に負けてしまうぞ」
「別に、頼んでませんわ……」
「ああ。頼まれてない。僕が勝手にやったことだ」
セシルはアーサーのことがよく分からない。セシルの美貌に惹かれて態度を改めたようには見えないが、かと言って醜くて嫌いだと言うほどの嫌悪も感じられない。
「……これも風紀委員としてやるべきこと?」
アーサーは一拍の間を置いてから、「ああ」と小さく肯定した。
2人はしばらく見つめ合ってから、セシルは立ち上がってストレッチをした。スタート台からセシルが華麗に飛び込む。満点の星空に照らされた水面を、静かに掻き分けて進んだ。
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