俺たちだけの春の午後

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「おはよう。」 日曜日、午前十時。 横にいるはずの俺の妻がいなくてキッチンに向かう。 ペアルックのパジャマのままでコーヒー豆をひく俺の妻の姿があった。 「寝過ぎたわ…」 ガンガンとする頭をかくと、千鶴(ちづる)がふふっと笑う。 「すごい寝癖だね。」 「え。」 洗面所に飛び込む。 それはもうダイナミックな寝癖だった。 一周回って博物館に飾った方がいいんじゃないか。 …何を言っているのだろう。まだ、寝ぼけているらしい。 「大輔(だいすけ)よーく寝てたよ。」 コーヒーの匂いが漂う。 ここにきて頭が動き始めた。 ようやくフローリングの冷たさが脳に送られた。 「お花見、やめる?」 「あ。」 そうだ、お花見行こうって話してたのに。 「うわ…まじごめん。どうする?」 「寝過ごしたのは私もそうだし。謝ることはないよ。」 千鶴は笑いを堪えたようにマグカップを差し出す。 「そんな頭で真面目な顔してるの面白いんだけど。」 黒いコーヒーに変な寝癖で真剣な顔をしたおかしな男が映った。 想像以上に間抜けだった。 そんな自分が不甲斐なくて、面白いより情けないが勝る。 「お花見にする?お団子にする?それとも、わたし?」 ニヤけながら、ちょっと恥ずかしがりながら。 首を傾げてよってくる千鶴にぐっとなった。 語彙力は吹っ飛んでいった。 「千鶴…。君のそう言うところ好きよ。」 「あら、嬉しいわね。」 千鶴は目を細めて、口角をあげる。 芝居じみた表情に笑ってしまった。 「でもさ。」 俺はカーテンを開く。 遠くに微かに見える桜。 薄い色素の青い空。 言いたいことが伝わったらしく、千鶴は黙ったまま冷凍庫を開いた。 綺麗な3色団子。 この前2人でせっせと作った。 レンチンすればすぐ食べられるものだ。 「お花見にする?お団子にする?それとも、わたし?」 「全部でいきましょう。」 寝癖は直さないまま。 パジャマのまま。 でもそれこそが俺たちらしいような気もする。 「桜、遠いね。」 「ああ…。また今度ちゃんと行こうな。」 「うん。よろしくね。」 桜は遠いけど、こんなに近くで千鶴を感じられるのは家だからこそだ。 「千鶴、いつもありがとう。」 「いえいえ、こちらこそ。これからもよろしくね。」 「ああ。」 「あ、寝癖がしょげてきた。」 「重力ってすごいなー。」 「ねー」 鳥の声がする。 微かに日の光が入る。 これが俺たちの素晴らしい春の午後だ。
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