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気を失っていたナオキは意識を取り戻した。
「ゔっ……」
い、息ができない……
パニックになって目を開けると、目の前は薄暗く、顔の筋肉は凍り付いたように固まって動かすことが出来なかった。
頭の先から足のつま先まで、ナオキの全身には何かが覆いかぶさったような圧迫感があった。
?!潰される……
自分の置かれた状況が理解できずに、頭が混乱して怖くなったナオキは、無我夢中で両手両足をバタつかせた。
まるでひっくり返ったカメのように必死にもがいたナオキ。
その甲斐あってか、目の前の視界が突然開けて明るくなった。
圧迫されていた身体も解放されたように急に楽になった。
ナオキは、口を大きく開いて、新鮮な空気を吸い込んだ。
視線のずっと先には、厚い雲が垂れ込めた鉛色の空があった。
その空からは絶え間なく細かい雪が顔に降り注いできた。
吐く息はその雪のように白い。
ナオキは体が埋まった雪の中から上半身をゆっくりと起こした。
……そうだ、思い出した。
足を滑らせて……俺は雪山で滑落した。
その時、雪崩が起きたのか、怪物のような雪の壁が覆いかぶさってきた。
紙一重で死の淵から生還したナオキは、両腕で漕ぐようにして新雪の中から這い出ると身体の状態を確認した。
不幸中の幸いか、大きな怪我は負っていなかった。
「マナーーーーーッッッ!!!」
ナオキは立ち上がると辺りを見回しながら大声で叫んだ。
ナオキの叫び声は周りの山々に反響して輪唱のようにこだました。
しかし、その声に反応する者はいなかった。
ナオキがいる山あいの窪地には、しんしんと雪が降り続けているだけだった。
そうだ……
ナオキはスノージャケットの左胸のポケットからスマホを取り出した。
……ダメか……
マナに連絡を取ろうとしたが、圏外で通話もメールも使用できなかった。
当然、マナからの着信も無い。
落胆したナオキだったが、気を奮い立たせてマナの名前を叫び続けた。
それでも、マナが現れることはなかった。
マナは一体どこにいるんだ?
どこに行った?
ちくしょう……俺が雪山の登山に誘ったばっかりに……
ナオキは婚約者のマナを登山に誘ったことが悔やんでも悔やみ切れなかった。
雪山の中ではぐれてしまったマナをどう探せばいいのか、皆目見当がつかないナオキは、見通しの良い場所を求めて、取り敢えず目の前の崖を登り始めた。
寒さのためか、両脚には感覚が無かった。
何度もずり落ちながら、ようやく崖の上に這い上がった。
ナオキは背伸びをするようにしてマナの姿を探した。
だが、どこを見回してもマナを見つけることは出来なかった。
俺たちが歩いていた山道はどの辺りだろう?
周りはどこを見ても同じような雪景色の上、登山の上級者でもないナオキには当たりが付かなかった。
スマホのGPSが使えたら……
クソッ……
ナオキは他になす術もなかったために山道をゆっくりと歩き出した。
小一時間も歩いただろうか……
同じような山林の景色の中、風が一段と強まり吹雪模様となったため、山の奥に向かっているのか、登山口の方に戻っているのか、全く分からなくなった。
どうする?
来た道を戻るか?
このまま進むか?
相談できる相手も無く、徐々に心細くなってきたナオキは逡巡し始めた。
マナを探し出すどころか、自分自身が無事に生還できるのかさえ自信がなかった。
「おぉーーーいっ!!
マナーーーッ!!
誰かーーーっ!!
ここだっ!助けてくれっ!」
本能的に精神が崩壊することを防ごうとしたのか、ナオキは大声で叫び続けた。
吹雪で雪が横殴りに吹き荒れる中、ナオキの願いが通じたのか、視界の先に数人の人影が小さく見え隠れした。
あっ!
ひ、人だっ!
助かった……
「おぉーーーいっ!!
助けてくれーーっ!!」
ナオキは無我夢中で走り出した。
◇
「捜索は続けていますが、なかなか天候も回復せずに難航しています。
今日は午前中で中断せざるを得ませんでした。
痕跡や手掛かりも、残念ながら見つかっていません。
また明日、捜索を続けます。
明日は天候も回復しそうなので、発見できるように努めます。」
捜索隊の責任者が説明した。
「そうですか。分かりました。
よろしくお願いいたします。」
マナは深々と頭を下げた。
あの日、ナオキに誘われて雪山登山に出掛けた。
登り始めた時は抜けるような青空だったのに、あっという間に天候が急変した。
たちどころに吹雪が私たちの視界を奪った。
体を小さく丸めて風雪に耐えながら、5合目辺りの山道を歩いていた時、足元の路肩が突然崩れて私たちは崖から滑落した。
滑落した時のことは記憶が無い。
気が付いたら、私は運よく崖の中腹の立ち木に引っ掛かって止まっていた。
自分の置かれている状況を確認した後、辺りを見回したけど、私の視界の中にナオキの姿を捕らえることは出来なかった。
その後、私は、立ち木が生えている不安定な斜面で慎重に立ち上がるとナオキを探した。
けれども、ナオキの姿を見つけることは出来なかった。
滑落した時に雪崩が起きたようで、ナオキとはぐれてしまったらしい……
吹雪の吹き荒れる中、必死にナオキの名前を呼んだけど、ゴウゴウと唸り声のように響く風の音にかき消された。
崖を這い登り、絶望と悲しみの中でナオキを探し続けたけど、遂に見つからなかった……
涙が止まらなかった……
その後、涙が枯れ果てた私は、救助を要請しようと思い、命かながら下山した。
ナオキが遭難して、すでに3日……
いつもの元気な笑顔で戻って来ると私は信じている。
奇跡は必ず起きる。
◇
ナオキは雪が降り積もっている山道に足を取られながらも必死に走った。
それでも、前方に見える人影に、なかなか追い付くことが出来ない。
上手く走れない自分がもどかしかった。
「おぉーーいっ!助けてくれーーっ!待ってくれーーっ!」
ナオキが視界の端に捉えた人影は、ナオキの声が届いていないのか、無反応のまま歩き続けているようだった。
しかも、雪深い山道にもかかわらず、ナオキと違ってスルスルと苦も無く歩いているようだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……
どこに向かっているんだ?」
ようやく登山者の姿がはっきりと見える距離まで近づくことが出来た。
「……あっ!!」
ナオキは登山者の姿を目の当たりにして驚きの声を上げた。
数人の登山者グループだと思っていたが、数十人の老若男女が細長い列を作って行進していた。
若いカップルもいれば、白髪の老人もいる。
4、5人の中年グループが固まって歩いているかと思えば、年端もいかない子供がたった独りで歩いている。
雪山の中でのあまりにも奇異な光景だった。
さらに奇妙なことに、誰一人として一言も喋らず、うつむいたまま、黙々と歩いている。
ナオキはその非現実的な光景を見て、恐怖を感じた。
な、何なんだよ……この人たちは……
夢だよな、これは……
きっと夢に違いない……
足がすくんでその場に立ち止まっていたナオキは、一歩、二歩と後ずさりした。
その時、後ろから声をかけられた。
「どうしたんだね?
そんなところで足を止めていたら、皆に遅れてしまうぞ。」
年配男性の優しい声だった。
いくら優しい声とは言え、この有り得ない状況の中で背中越しに声をかけられたナオキは、飛び上がるくらいに驚いた。
ナオキが後ろを振り返ると、その声質通りの優しそうな表情の老人が立っていた。
「あっ、どうも……」
雪山で遭難中のナオキだったが、自分が置かれている状況も忘れて普段の挨拶の言葉が口をついて出た。
ただ、挨拶した瞬間、目を丸くした。
この雪山の山道にいるには、老人の服装は余りにも不自然だった。
なんで……パジャマ?
今にでもベッドに入り込もうとするかのようなパジャマ姿……しかも裸足だ……
えっ???
マジ???
雪山だよ、ここ。
よくよく見れば、他の行進している人々も服装は様々だった。
当然防寒着を着ている人もいたが、Tシャツに短パン姿の人やスーツを着た男性、深紅のドレスをまとった女性もいる。
雪山で……どうなっているんだよ……
ナオキは異様な一団を目の当たりにして、全身に鳥肌が立った。
再び視線を老人に移すと、頭の先から足の先まで見回した。
そして、老人の顔を見つめた。
「何かな?私の顔に何か付いているのかな?」
「い、いいえ……そうじゃありません。」
「そうか。」
「あの……寒くないんですか?」
「うん?」
「そんな薄着で……しかも裸足じゃないですか……」
「寒くはない。
まあ、これが最期の姿だったからな。今更変えられん……」
「最期の姿って……」
「病室だったから……私が死んだのは。」
「死んだ?!」
ナオキは怪訝な表情になった。
「そうだ。」
老人は表情を変えない。
「それで、その恰好なんですか……」
「雪山では似つかわしくないがな。」
「……それじゃあ、他の人もみんな、死んでいるんですか?」
ナオキは行進している人々に視線を移した。
「そういうことだな。」
「な……」
ナオキは絶句した。
ただ、行進している人々を目の当たりにした時ほどの恐怖心は、不思議と湧き上がってこなかった。
「しかし、ようやくここまで来たよ。もうすぐだ。」
老人は感慨深げに言った。
「あなたは一体、どこに向かっているんですか?」
「どこって、君も同じだろう?」
老人は悪戯っぽく言った。
「……いいえ。
私はこの雪山で知り合いとはぐれてしまって、それで、助けてもらおうと思いまして……」
「そうか……残念だか、それは叶わないことだ。」
「助けてもらえないんですか?」
「そう、不可能だ。」
「ほかの人も?」
「ほかの者も私と同じだ。
誰も君を助けることは出来ん。」
「亡くなっているから?」
「そうだ。」
「みんな、どこを目指して歩いているんですか?
亡くなっているから、下山する訳じゃないですよね?」
「本当に知らないのか?」
「はい。」
「ここは霊道だ。」
「れいどう?」
「ああ。いわゆる死者の道だな。
ここを通ってあの世に行く。
歩いている者は皆、私も含めて、成仏してあの世に行く。
そのための霊道だ。
この世とあの世との架け橋。」
「……あなたたちは……つまり……あの世に行こうとしている幽霊?」
「そんなに驚くことはない……
君も同じじゃないか。」
「えっ?
僕は死んではいませんよ。
幽霊なんかじゃない……」
「そうは言っても、引き寄せられるように霊道にやって来た。
死を受け入れないと、成仏できんぞ。」
「成仏なんかしませんよ。しっかり生きていますから。
それに、僕には婚約者がいるんです。」
「婚約者がいるのか……可哀想に……
君には私や霊道を歩いている他の者の姿が見えているし、こうして私と会話している。
残念だが、君が死んでいる何よりの証拠だ。」
「そ、そんな……信じません。
この体だって、いつも通り何の変化もない。」
ナオキは両手を広げて自らの身体を見回した。
「君は恐らく死期を迎えて間もないんだろう。
足元から徐々に感覚が無くなっていくはずだ。」
「……あっ!」
確かにナオキの両脚は、雪の中で意識を取り戻した時から痺れたように感覚が無かった。
でも……信じないぞ、俺が死んだなんて……
マナが……マナが俺を待っているはずだ……
…………
今頃、マナはどこでどうしているんだ?
見つからない……
マナ、どこにいるんだ?
まさか……
ナオキの頭には最悪の状況がよぎった。
……そうだ。
この雪山でマナを見かけなかったのか、老人に訊いてみよう。
そう考えて、ナオキはスマホに保存してあるマナの画像を老人に見てもらうために、胸ポケットからスマホを取り出そうとした。
右手で左胸のポケットのファスナーを下ろして中からスマホを取り出した時、右手が思うように動かなかったために、スマホはナオキの手のひらから滑り落ちた。
ナオキはスマホを拾い上げようともせずに、雪の中に半分くらい突き刺さったスマホをじっと見つめた。
すでに右手の感覚は無くなっていた。
すぐに左手も痺れ始めた。
ナオキは徐々に体中の感覚が無くなっていくという事実を受け入れざるを得なかった。
人は死を抗うことが出来ない。漠然とそう悟った。
「さあ、そんな現世と繋がるケータイは捨て置いて、霊道を行く者たちの列に入ろうじゃないか?」
老人は優しく手を差し伸べた。
「あの世はまさに天国らしいぞ。何も恐れることはない。」
「マナを……
マナを見ませんでしたか?
僕はマナを残してあの世に行くわけにはいかない……」
「マナ?君の婚約者かな?」
老人に質問をしたナオキだったが、ナオキの耳にはもはや老人の声が入ってこなかった。
マナは生きているのか?助かったのか?
それとも……ほかの人たちと一緒に、あの霊道を歩いているか?
万が一霊道を歩いているのなら、俺はマナと必ず再会できる。
俺は、何の恐れも躊躇も無く、あの世に行くよ。
……でも、マナには生きていて欲しい。何があっても、生き続けて欲しい。
最低のタイミングで最低の別れ方になってしまうけど……マナ、どうか生きていてくれ……
ナオキは、雪空の下で崩れ落ちるように両膝をつくと、ゆっくり頭を垂れた。
視線の先には落としたスマホ。ヒラヒラと舞っていた綿雪が積もりだしている。
そのスマホの上に、涙のしずくがひと粒こぼれ落ちた。
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