エイプリルフール

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 高橋と山田が伊神忠商事本社ビルに訪れていた時の事だった。無事、商談を終え、ロビーで今日は直帰だから居酒屋に寄って帰ろう。と、ふたりで相談していると、「ぜひ、わたしもいっしよに連れて行って」と声をかけてきたのが、沢尻エリコだった。  高橋はなにごとか? と。山田は突然の美人のお誘いに、鼻の下を伸ばして、わけをきく事もなく同行に同意していた。  この沢尻エリコ、伊神忠商事社長の娘である。ーーが、大企業の社長令嬢とは思えない、おてんば娘で、社長付き運転手であろう、ドライバーズユニフォームを着た男に、「ディナーは友達と食べに行くからって、パパに言っといて」と高橋と山田の手をひっぱって、伊神忠商事本社ビルから出て行った。  道すがら、エリコは居酒屋というところには、一度も行った事がないという。そんなところには、我われのようなセレブが行くところではないと、父母に言われ、家族で食事に行く時は、高級なフレンチ、ボーノなイタリアン、赤坂の料亭、値札に値段が書いていない寿司店、贅をつくした中華の満漢全席、そういったVIPの行くような場所でしか、外食をした事がないという。高橋たちは、大衆店が集まる駅チカの居酒屋に向かった。  ビールで乾杯。枝豆に焼き鳥、蛸ときゅうりのピリ辛あえ。手羽先、唐揚げ、揚げだし豆腐。まだこの時は、名前も名乗らなかったお嬢さんは目を輝かせて、庶民の味に舌鼓を打っていた。  山田は、この飲みっぷり食べっぷりのいい美女といっしょに盛りあがっていたが、高橋は違った。施設で生き抜くために、子供の頃から身につけた観察眼でこの女を見ていた。彼女の服装は、すべてブランド物で、その中でも、かなり値が張りそうな服を着ている。伊神忠商事でも、取締役級の人物が乗りそうな、ロールスロイスの運転手に気安く声をかけ(その運転手はかなり狼狽していた)、建物から出る時にも、受付嬢のふたりが、深ぶかと頭を下げていたのにも気づいていた。  この女、ひょっとして……。俺にも運が巡ってきたのかもしれない。なんの因果かわからんが、このチャンスを逃す手はない。 「お待たせしました」と店員がお代わりの大ジョッキ三つをテーブルに置いた。高橋は、ひとつをエリコに差し出しながら、きいた。 「ところで、私は堀田ロジスティックスの高橋と申します。こっちは山田という者で……お嬢さん、お名前は?」 「わたし、沢尻エリコ(ヽヽヽヽヽ)」  この名前をきいて、高橋はあらためて戦慄した。しかし表情には出さなかった。山田はまだ気がついていないようだ。「エリコちゃんって名前なの! 可愛い名前だね!」と、呑気にビールジョッキで彼女と乾杯している。  伊神忠商事、社長、沢尻江利夫の一人娘、沢尻エリコだ。
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