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「とんでもない。身体検査や運動検査に通っても、その後、学術試験が五日間連続であるんだ。父さんは一日目の数学の試験で不合格さ」
「兵学校の入試に落ちたから、『同期の桜』が嫌いなの?」
父親はかぶりを振って答えた。
「いや、そうじゃない。父さんは赤紙が来て、二等兵で海軍に入営した。昭和十九年のことだ。インドネシアに派遣された。もちろん家族には本当のことは言えなかった」
「どうして?」
「出征先は機密事項だからだ。そのときの部隊の隊長が中島中尉といって兵学校出身の人だった。明るくて、知性があり、まさにエリートだった。しかも、この中尉はむやみにいばらず、俺達二等兵とも気軽に口をきいてくれた」
「へえー、いい人に会えて良かったね」
「父さんたちはこの中尉から西条八十(やそ)という詩人を教えてもらった。それまで詩には縁はなかったが、父さんたちは西条さんの詩を暗唱したものだ。それから、中尉は西条さんの作った軍歌も教えてくれた。『憧れの荒鷲』『若鷲の歌』『決戦の大空へ』。中でも一番歌った歌が『同期の桜』だ」
「『同期の桜』って西条八十の作詞なの?」
「ああ、そうだ」
「だけど、どうして父さんは『同期の桜』が嫌いなの?」
「父さんは中尉に気に入られていたので、よく細かな用事を言いつけられて部屋まで行くことがあった。ある日、中尉に兵学校時代のお客があったので、父さんは気を利かせて酒保から酒のつまみを分けてもらって中尉の部屋に持って行ったんだ。ドアをノックする前に、話し声が聞こえてしまった。こんな会話だった。『中島、お前、下士官に優し過ぎないか?』『ああ。あれは計算ずくだ。あいつらは優しくしてやれば簡単に手なずけられるのさ』それを聞いてノックができなくなってしまった。『しょせん、あいつらは俺達兵学校出身者の弾除けさ』それを聞いた俺はノックをせず、そのまま酒保につまみを返品した」
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