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潔はそのときの父親の気持ちが想像できた。自分が信頼していた人間に裏切られたときのショックの大きさが。
「そのときわかったんだ。『同期の桜』の意味が。あれはエリートのための歌なんだ。『血肉分けたる 仲ではないが なぜか気が合うて 別れられぬ』の中に、俺達庶民は入っていないんだ。そして、『花の都の 靖国神社 春の梢に 咲いて会おう』とあいつらは歌う。冗談じゃない。俺はあいつらと二度と会いたくない。だから、桜を見ると虫唾が走るんだ。花見なんか金輪際するもんか……」
父親が胸の内をさらけ出して一気に語るのに潔は圧倒されていた。父親がこんなにしゃべったのは初めてだ。
「そうか。父さんの戦争時代の体験からお花見に行きたくないという気持ちはよくわかったよ」
父親は「わかってくれればそれでいい」と呟いた。
潔は深呼吸をして続けた。
「気持ちはわかるけど、だからといってお花見をしないはおかしいよ」
父親は怪訝な表情を浮かべた。
「父さん、花に罪はないよ。兵学校が先にあって桜が生まれたんじゃない。桜が先にあって兵学校が生まれたんだよ。西行って知ってるよね?」
「ああ」
「ぼくは授業でよく西行のことを話すんだ。西行は弱冠二十三歳で出家し、全国を旅して歌を詠んだんだ。その数、二千九十首と言われているんだが、桜が大好きでね。桜を詠んだ歌が二百三十首もあるんだ。ぼくの好きな歌にこういうのがあるよ。『吉野山 こずえの花を 見し日より 心は身にも そはずなりにき』。つまり、吉野山の桜を見た日から、自分の心は身を離れてしまい、落ち着かなくなってしまったことよ、という意味なんだ。それくらい桜の魅力に取り付かれてしまったんだ。だから、桜を見て美しいと思うのは当たり前なんだ。そういう自分の心に蓋をする理由はないよ」
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