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桜が初々しい気持ちと無関係の存在になったのはいつからだろう、と彼は思う。若手の頃は、この薄いピンク色の花がおめでたく咲き誇るのを見て嬉しくなっていたものだ。
道路沿いのソメイヨシノを見上げて、近所の人だろうか、年配の女性が慣れない手つきでスマホを操作し、桜を写真に収めていた。気持ちはわかるが歩道の真ん中で急に立ち止まるのはやめてもらいたい。ここの歩道は自転車の通りも多いのだ。
それにしても物事にはタイミングが大事だと思わされる。
この桜が五月六月の新緑や花の盛りに咲いていたらどうだろう。おそらく人はこんなにも桜を見上げないし、お花見だって盛り上がらない。
恵方巻だのハロウィンだのクリスマスだのの盛り上がりも、仕掛ける企業戦略に辟易するが、花が咲いてわかりやすく浮かれるのもなんだかバカバカしくないだろうか。どちらにしたって誰かに喜ばされていて、おもちゃであやされる赤子みたいだ。
そんなことを思いつつも、五丁目の通りの桜並木は八分咲きくらいか、と彼は半ば無意識に確認している。
保険の営業マンである彼の仕事場は住宅街が多い。飛び込みで新規を取ってくるようなことではなく、契約や更新の案内で定期的に個人宅へ訪問するのだ。おかげで担当エリアのローカル情報にはすっかり詳しくなった。
「ロータリーの花壇って町内会で手入れされてるんですか?」
「交差点にある喫茶店は閉店しちゃったんですね。いやあ一回入ってみようかと思ったまま行かずじまいで、残念です」
保険という商品には形がない。顧客にとって目に見えるのは、目の前にいる営業マンだけだ。保険の信頼というのは、結局目の前の営業マンの信頼といっていい。
「オリジン弁当があったところって歯医者さんになったんですね。全然違う業種だからびっくりしましたよ」
難しい話の合間に雑談を挟む。専門用語を並べ立てて保険を売りつけようとしていると思われないように。この街を保険売り場のように見ていると思われないように。
「五丁目の通りの桜は八分咲きってところでしたよ。週末には見頃になりそうですね。雨だけが心配ですねえ」
今日訪問する顧客には、どこもこの話題でもつだろう。そんなことを考えながら彼は路地を急いだ。住宅の他は、ほんの小さな公園があるくらいの閑静な路地だ。
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