そこにあるお花見

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 ネクタイを緩めると首筋に風が通った。  今日の訪問はこれで終わりだ。夕食の準備や仕事の人の帰宅時間を避けるから、大抵は午後から夕方始めに外回りは終わる。もちろん共働きのお宅などには土日に訪問することもあるが。今日はこれから帰社して事務作業だ。  電車を乗り継いで会社までは三〇分ほど。駅に着いたらスターバックスでアイスコーヒーを買っていこう。帰社したらまずメールの返信をしよう。それから来週の訪問先への資料作成の優先順位を考えよう。歩いているのは近所の人でなければ迷ってしまう細い路地だったが、彼は近所の人とほとんど変わりない足取りで考え事とともに駅に向かっていた。  ふと路地の途中で足を止めた。  こんなところに公園があったのか、と思った。どうして今まで気づかなかったのだろうというよりは、どうして今気づいたのだろうかと思った。桜が咲いているからだとわかった。  その小さな、鉄棒と砂場しかない公園の奥に、ソメイヨシノが一本だけ植えられていた。三方を家に囲まれ、家と公園の敷地の境には新芽が出始めのツツジの植え込みがあり、まだ葉の出ていない植木が二、三本あった。奥で桜だけがスポットライトをあてられたかのように花をつけて、今まさに満開を迎えようとしていた。小学校の低学年くらいの男の子が二人、桜の下にシートを敷いていた。  彼は自分でも気づかずに目を細めてその光景を眺めていた。  桜の木はこういうふうにして咲くものなんだな、と彼は思った。  花は勝手に咲くのだ。人間のあずかり知らぬところで、自分自身のために、新芽を出して花をつけ、葉を広げ、秋になれば色をつけてその葉を落とす。意味なんてない、そういうものなのだ。木々は我々の生活に交わるようで交わらない独自の営みを持っているのだ。  そしてそれを見ることもまた、人間の勝手な、独自の営みなのだ。  彼は公園に入っていき、ツツジの植わった花壇の縁にスーツのズボンで腰を下ろした。シートに座っていた男の子の一人と目が合った。 「おじさんもお花見していい?」」 「いいよ」  彼が声をかけると一人が言った。 「でも何も持ってないじゃん」  いいよ、と答えた子にもう一人が言った。 「何も持ってなくてもお花見だよ。花見てるんだから」  いいよ、と答えた子が当たり前のように言った。そうだねと、シートに背筋を伸ばして座る男の子二人を見て思った。花を見ることがお花見だった。他に何があったというのだろう。
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