853人が本棚に入れています
本棚に追加
第5話 逃した小鳥
昨夜、海門が帰ってきたのは、真夜中過ぎだった。
ベッドに入り、うとうとしかけたところ、ドアの開閉音がした。
こんな時間まで、帰宅しないで、何をしてたんだろう?
仕事だとばかり思っていたが、実は違うのかも知れない。もしかしたら、次のお相手と、デートしていたのかも。
あれだけ、彼女が切れたことがなかった海門が、禁欲しているとは思えない。あと3ヶ月で、既婚者になるつもりなら、自分と同じで、今はまだ自由の身だ。何をしてても、文句を言う筋合いのものじゃない。
でも、なぜか、モヤっとする。
翌日、海門がまだ寝ているうちに、部屋を出た。
マンションの前まで、鏑木さんが迎えにきてくれる。
白のBMWが、駐車場に入ってきた。私服の鏑木さんが、降り立つ。ラフでかっこいい。
「おはようございます。今日は、よろしくお願いします」
スマートな所作で、助手席のドアを開ける。何だか、お姫様になったみたい。こんなちょっとしたことで、トキメクのは、やはり免疫が無いせいか?
「鏑木支配人、私服も素敵ですね」
無理して、余裕のある風を装ってみる。
「ありがとう。キャンプ場まで行くのに、スーツってわけにも行かないからね」
藍色の綿ニットとベージュのパンツが、知的な鏑木さんによく似合う。きっと、高価な物なんだろうな。
「今日は、休日なのに、付き合ってもらってありがとう。デートの予定はなかったの?」
「そんな…、相手もいないのに…」
「驚いた。まさか、まだ海門一筋なんて事は無いよね」
「もっ、もちろんです!たまたま今、いないだけですよ」
見栄張った。嘘ついた。これくらいの可愛い嘘は、許されるだろう。第一、恥ずかしくて、真実を言えない。
「そうだよね。卒業してから、10年も経つんだから。一ノ瀬さんみたいな人が、モテないはずないか…」
いや、お世辞でも、そう言ってくださると、嬉しいですが、モテなかったんですよ、これが!笑って、誤魔化そう。
「支配人、まず、どこから行きますか?」
「休日なんだから、支配人はやめましょう。冬星でいいですよ」
えっ。いきなりですか?
「…冬星…さん?」
「そう。じゃあこちらも翠さん…でいいですか?まずは、グランピング施設まで行きましょう」
グランピング事務所前の、駐車場に車を停める。
ここの建物が大きいのは、キャンプ場の受付も兼ねていることと、グランピングテント滞在者に食材を提供する、調理場が入っているからだ。
また、シャワールームやトイレ、パウダールームなどの設備がある。当然、スタッフが24時間常駐する。
鏑木さんは、目の前にいたスタッフに声を掛ける。
気さくな態度で、挨拶を交わしている。若いスタッフが多い。
まだ、午前中なので、チェックインの客はいない。昨夜からの滞在客がちらほらいる程度だ。
「今のうちに、キャンプ場を回りましょうか」
鏑木さんに促されて、坂を登って行く。
「大きな荷物ですね。持ちましょう」
断る前に、サッと奪われてしまった。やる事がいちいち紳士的だ。こういう事が自然にできるって、スキルが高い!
運動不足の身に、この坂は辛い。荷物を持ってもらってよかった。両側を木立に囲まれた一本道をしばらく行くと、やっと開けた場所に着いた。
見渡す限り、満開の桜に出迎えられた。
「つ…着きました…」
疲労困憊の私を見て、鏑木さんがポツリと言った。
「車で来ればよかったね…」
今更、遅いです。
最初のコメントを投稿しよう!