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帰りの車の中、鏑木さんはあまり饒舌ではなかった。
私も、いろいろ考えることだらけで、自然と口が重くなった。
何となく、気まずいのは、別れ際のやり取りがあったからだ。
あの後、3人で今後の予定を擦り合わせた。店を出た所で、夏樹が鏑木さんを急に呼び止めた。
「言い忘れた。一つだけ条件がある。アンタが、姫、いや、翠に私的な感情を抱かないこと。あくまでも、仕事仲間として、その範疇を超えないこと。私は、翠が傷つくのを見るのが、我慢ならない。学生時代散々見てきたからな。だから、約束して欲しい」
「夏樹、何言ってんのよ。鏑木さんに失礼よ。そんなことになる訳ないじゃない」
私の言葉を遮って、鏑木さんが言葉を発する。
「いや。不破さんの言うのは、最もだ。僕も、一ノ瀬さんが、心を乱すような原因になることは、避けたいと思う。職場としては、当然のことだ」
「じゃあ、わかって…」
「しかし、約束はできない」
えっ?
「翠さんは魅力的な女性だ。この先、自分が翠さんに、恋愛感情を持たないなんて、確約できるはずがない。好きになることを止めるなんて、できない。僕は、生身の男だ。枯れ果てた老人じゃないんだから」
それを聞いて、夏樹はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「言うじゃない。でも…気に入った」
…絶対に、海門と一緒に住んでるなんて、知られちゃいけない。
大変なことになる。
マンション近くのスーパーが見えて来た。
「あ、私、買い物があるので、ここで結構です」
「じゃあ、駐車場に入れますね」
白のBMWから、降りる。
「今日はありがとうございました」
「翠さん!」
鏑木さんが、去ろうとした私を呼び止めた。振り向くと、車から降り立っていた。
「…いえ、お疲れ様でした。明日から、またよろしくお願いします」
軽く会釈をする。
私も会釈を返して、店に向かって歩き出した。振り向くのは怖くて、できなかった。
明日から、どんな顔をすればいいか、困ってしまうから。
海門が、おでこに熱さましのシートを貼り付けたまま、私の目の前で、美味そうにうどんを啜っている。
全く、コイツのせいで、立てなくてもいい波風が立つ。
「熱、下がったんでしょ。何でまだ貼ってるの」
「あ、これ、気持ちいいんだ。癖になる」
もう、馬鹿。ガキみたい。
でも…
「海門、アンタ、いつもちゃんと食べてるの?」
「そうだな。朝は食べない。昼は、食べたり食べなかったり。時間がない時は、プロテインを飲むだけ。夜は、外食だね、基本的に。酒だけの時もある」
「ずっと、そんなんだったの?」
「以前は、ちゃんと作って食べてたけど、4月になってから、余裕がなくなった」
呆れた。倒れるはずだ。
仕方ない…。
「これから、私も早起きするから。早起きして、朝ご飯作るから、一緒に食べましょう。昼は、余裕があれば、お弁当、作る。余裕があった時だけね。カフェができるまで。カフェができたら、運ばせればいいじゃない」
海門が、驚いて目を丸くしている。
「そりゃ、ありがたいけど…。いいのか?」
「アンタに倒れられると、こっちが困るのよ。その代わり、リビングの掃除とゴミ出しは、全面的にアンタね」
「了解。助かるよ」
歯を見せて、ニカっと笑う。
全く、自分のお人好しに呆れる。
でも、しょうがない。今、コイツが潰れると、周りに負担が掛かる。特に、鏑木さんが大変になる。私たちの企画が進まなくなる。
2食だけでも、しっかり食べさせておけば、何とか保つだろう。
それに、コイツはこの後、夏樹とバトることになるだろうから、しっかりしてもらわないと。
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