乾杯

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あれから何十年もの時が経った。 今や私も成人した孫を持つような年齢だ。 かつて地獄と化したこの町も復興して久しい。 今は綺麗に整えられた住みやすい町だ。 中央にある公園も元の美しさを取り戻し、住民たちの憩いの場になっている。 そんな公園の片隅には、昔の災いを記す石碑がひっそりと佇んでいる。 あの記憶を持つ人間の数も随分と減った。 若い人間にとっては遠い世界の出来事のように思うことだろう。 それも時代の流れというやつだ。仕方ない。 だが、私は今でも昨日のように思い出す。 特に、春先のこの季節になると思い出さずにはいられない。 花開く前の蕾でいっぱいの頃、私は決まって一人であの公園を訪れる。 缶ビールを五本携えて、大きな桜の木の下に赴く。 若くして旅立ってしまった仲間達への弔いの為だ。 今でも、満開の桜をまともに見ることは出来ない。 大切な思い出が詰まっているから、どうしても辛くなってしまうのだ。 こんな年になっても、まだ私は過去を割り切れずにいるらしい。 「なあ皆、今年も春が来たよ。あと1週間もすれば、ここも満開になるかな」 木の下に腰を下ろし、5本の缶ビールを自分の隣に置いた。 その内の1本を手に取り、開ける。 「思い出すよなあ。昔、満開の桜の季節には皆で集まったもんだよなあ。  あの日も、お互いの近況を話して笑い合ったよなあ」 何も無い空に向かってビールを掲げ、口を付ける。 「オサムは大企業で営業成績のトップを取ってたっけ」 「トシハルは大学院まで行って博士号を取って学者の道に進んでたんだ」 「モトキは公務員の仕事をしながらお婆さんの介護も引き受けて、  休みの日にはボランティアもやってたんだよな」 「ダイゴは親の定食屋を引き継いで、近い内に結婚する予定だったよな」 缶の中のビールを更に飲む。 「皆、明るい未来を信じて真摯に生きていたんだ」 「あんなことが無ければ、今でもここで皆と一緒に酒を飲めていた筈なんだ」 残りのビールを飲み干す。 「何で、大した取り柄もない俺だけが生き残っちまったんだろうなあ。  無駄に長生きしちまって、今じゃこんな老いぼれだよ」 空になった缶を置いて目を閉じる。 「お前たちに娘を見てもらいたかった。孫の話を聞いてもらいたかったなあ」 叶わなかった望みを口にすると、自然と涙が溢れた。 そんな私を慰めるように優しい風が吹く。 どれぐらいそうやって過ごしていたのだろうか。 不意に、誰かに肩を叩かれた。 「おい、何ぼーっとしてるんだよ」 「え?」 覚えのある声に導かれてうっすらと目を開ける。 途端に、私は思わず目を見開いた。 辺りは満開の桜でいっぱいだった。 いや、そればかりではなく…… 「何だ何だ、日々の仕事でお疲れか?   ま、今日ぐらいは嫌なことを忘れてパーっといこうぜ」 「え? え?」 「ほらほら、お前も早くこっちに来て座れよ」 「え? 何で……」 「何でって、俺たち皆してお前が来るのを待ってたんだぞ」 オサムが、トシハルが、モトキが、ダイゴが、笑顔で私を迎え入れる。 あの日の姿、あの日の笑顔のままで。 「みんな……」 心の底から熱いものが込み上げてくる。 「なんだよー、そんな情けない顔するなって。せっかく久しぶりに会えたってのにさ」 オサムが笑いながら私の腕を引っ張る。 促されるままに私は彼らの輪の中に入った。 皆がいる。 私もいる。 なぜ? 訳がわからなかった。いや…… (これは夢だ。きっと自分に都合の良い夢でも見てるんだろう) でも良いじゃないか、それで。 私の心は確かに喜びに満ちていた。 これまで抱えてきた憂いを振り払うように、私は笑顔を弾ませた。
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