見頃を過ぎても

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見頃を過ぎても

ガタゴト揺れる電車の窓から見えた夕日に、こんな時間帯に、家路に着くのは初めてだと思い至る。出張先での仕事が早く終わっただけの事だが、そんな時は、会社へ寄るのが常だった。 到着駅のアナウンスは変わらないが、すれ違う人の雰囲気が違って、一瞬、降りる駅を間違えたのかと焦る。 疲れたサラリーマンは自分だけ、それだけでここが異世界の様に感じてしまう。 改札を抜けて、合点がいく。 真新しい制服の群れ達が、笑い声をあげながら駅へと向かう。型崩れの無い鞄と、靴。 やっと先輩になった感じの、少し背伸びした制服と、角の擦れた鞄と、味の出た革靴。 ふと、制服の肩に止まっていた白い紙が目に入る。それは、すれ違いざまにヒラリ、と舞って、1枚の花弁だと知る。 そう言えば、そんな時期だったと、思い出す。 日常の忙しさに忘れていた。 満開に咲き誇る木の下から見上げた時の、畏怖と感動。 期待と不安が入り混じった、若い心。 もう、観に行かなくなって久しい。 周りをよく観察してみれば、そこかしこに落ちる花弁達。 制服に、鞄に、まるでお邪魔します、とささやかに密やかに、存在を乗せている。 散りゆく、見頃を過ぎた桜の名残。 それでも良いか、と酒屋に寄って、少しだけいいワインを購入する。 自宅マンションから見える桜並木も、若葉が見える頃だ。 カーテンを開けて、一緒に観よう。 まだ日が沈む前からだけど、たまには。 大分前に購入した、グラスの出番が来たと、笑いながら。 こんな時間に帰宅したら、妻は何と言うだろうか。 久しぶりに胸が踊る。ドキドキするのとは少し違って、もう若くは無いのだと、流れた年月を惜しむ。 真新しい制服やスーツは、セピア色の中にしか無いけど、花弁が運んだ気紛れは、忙しさにかまけて、どこか倦んだ日常に彩りをくれた。 互いに見頃は過ぎてしまったけど、1枚の花弁くらいの名残はあるだろう。 くたびれたスーツの肩に乗った花弁を払わずに玄関のドアを潜った。
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