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ひなた
水筒からコップへ家で入れてきたコーヒーを注ぐ。ふんわりと立ち上る湯気と香ばしい匂い。春先といえど夜はまだ寒いので、じんわりと指先に伝わる熱にホッと息をついた。
私は父と二人で近くの高台に来ていた。民家と民家の間にひっそりと佇んでいる神社。その脇の階段を上るとたどり着くこの場所では、小さく拓けた土地に佇む大きな桜の樹が出迎えてくれる。昔はこの桜の下で祖父母も呼んで私の誕生日会兼花見をしていたが、二十年前から何が原因か分からないが花をつけなくなってしまった。
花が咲かなくなっても私たちは度々この場所を訪れていた。花は消えたが、ここからは星がよく見えたからだ。住宅の光は低く遠く、周囲の木々に遮られている。照明に邪魔されることなく、穏やかに瞬く星々は子供の頃から変わらない光景だった。
私がレジャーシートに座りながら星を眺めていると、父は慣れた手つきでケースから一眼レフのカメラを取り出して三脚に固定した。レンズを空に向け、ファインダーを覗きこみながら位置を微調整している。
しばらくすると位置が決まったのか、シャッター音が鳴った。撮り終わるとすぐに画像を確認しては設定を変えては撮りなおすを繰り返した。
何枚かとったところで満足したらしく、私の横に「どっこいしょ」と腰を下ろした。
「ジジくさいなぁ」
「そうだ俺だってもう年なんだ。年寄は労れよ」
「じゃあ、飲む?」
私がコップを持ち上げて訊ねると頷いたので、父の分を水筒からコップに注いで渡した。二人でコーヒーを啜る音だけが辺りに響く。
私が高台に行こうと誘った時から、私から話があるのは分かっているので父から何か言うことはない。
どう切り出そうか思案しながら、横目でそっと窺う。
目尻に増えた皺、白髪が増えた髪。二人で夜空を見上げるようになってから、ずいぶんと時間が過ぎたと思う。あの時はまだ父の膝の上に座っていたし、飲んでいたのはホットココアだった。
あれは母が亡くなって初めての春のことだった。
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