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「桜を見に行こう」
誕生日からしばらくして父は何かを決意したような顔で、私の目を見てそう言った。でもあの桜の樹には花は咲いていないし、他の桜の樹ももう花は落ちて葉に変わっている。それにもう夜だ。いつもはもう寝るように言われる時間なのにそう言われ、戸惑っていると父は私の手を取り立ち上がらせた。私に厚めの上着を着せカバンに入れた荷物と見たことのないケースを持つと、祖母に声をかけ外に出た。
夜に初めて来た高台は静かで、空は僅かに明るいが暗闇に沈んでいるように見えた。一人でここにいると闇の中に引っ張り込まれて、もう二度と帰って来れないような気がして、知らないうちに父の足にしがみついていた。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だ」
父はそう言うと荷物の中を漁り何かを取り出した。カチッと音がして柔らかな光が灯る。父の手にはランタンがあり、小さな光だったが、それだけで少しほっとする。そしてレジャーシートを取り出して敷くと私をそこに座らせ、水筒から温かいココアを入れて持たせた。
「これ飲んで、ちょっと待っててな」
そう言うと父はケースからカメラを取り出し、三脚にセットすると写真を撮り始めた。
「あれ、おかしいな……」
メモ紙とカメラを交互に見て、四苦八苦しながらボタンをいじっては撮るを繰り返している。暗闇に向かってカメラを向けているので、何を撮っているんだろうと首を傾げた。一応、カメラの正面には桜の樹があるが花は無く、枝しかない。することもないので渡されたココアを飲んだが、飲み終わっても撮り終わる気配がない。
「何を撮ってるの?」
待ちきれなくなった私が聞いてみたが、父の視線はカメラから外れない。
「もうちょっと、待ってな。次で絶対撮れるから……よっし! ほら、ひなた見て見ろ!」
どうやらいい写真が撮れたらしい。弾んだ声と手招きで呼ばれ、そろそろと父の横に立つ。父の指差すカメラの液晶モニターを覗き込んだ私は思わず息を飲んだ。
桜の周囲に沢山の光の筋が輝いていた。枝に花をつけるように、舞い散る花びらのように。枯れ枝だけだった桜が輝く花を咲かせていたのだ。
「すごい! お花咲いてる!」
突然現れた花に驚いて父を見上げると、少しほっとしたような顔をしていた。そして樹の方も見たが、そこには変わらず花のない樹がたっているだけだった。
「どうしてお花、写真の中にしかないの?」
「カメラの中だけじゃないよ。ほら、よく見てごらん。桜の樹の向こうに見えないか?」
父の言葉によくよく目を凝らすと、樹の向こうに小さな光がある。全く気付いていなかったが、空には沢山の小さな星々が輝いていた。
「……お星さま?」
「そうだよ。お星さまになったママが、この桜の樹に花を咲かせてくれたんだ」
そう言うと父はレジャーシートに座り、私を自分の膝の上に座らせた。そのまま二人で星空を見上げた。
「前にママはお星さまになったって言ったよな。お星さまになって見守っていてくれるって。ママは姿が見えなくても、ずっとひなたの側にいてくれる。ひなたが元気に大きくなるのを見ていてくれる。どうかそれだけは、覚えていて欲しい」
父の言葉に頷くように星が瞬いた。母が頷いてくれた気がして、私の目からはぼろぼろと涙がこぼれていた。声をあげて泣く私を、父はただ黙って抱きしめてくれていた。
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